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里見義頼

さとみよしより

里見義頼とは里見義堯の次男で、里見義弘の弟。後に兄・義弘の子である梅王丸を強制出家させて安房里見家第7代目当主に就任し、父や兄と同様に北条家と戦い続けた。(1543年-1587年)
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分割相続の不満

1543年、里見家当主・里見義堯の次男として生まれる。兄に里見義弘がいる。初名は里見義継


兄・義弘は嫡子に恵まれず一時は義頼を後継者に仕立てようとしたが、1570年頃に実子・梅王丸が生まれてしまう。そこで義弘は安房国に義頼・上総国に梅王丸に領地を与えて分割相続を行おうとした。


しかしこの一件以降、義頼は不満を持ち義弘との関係が次第に険悪となっていく。


梅王丸強制出家

やがて1577年に兄・義弘が北条家と和解すると、義頼は北条氏政の娘・鶴姫を正室に迎えた。しかしその翌年に事態は急転する。


兄の義弘が48歳で病死した事により、梅王丸派と義頼派の派閥抗争が始まった。義頼は氏政と結んで1580年に上総国を制圧。梅王丸を強制出家させ、里見氏の領国全てを継承した。


これにより安房里見家第7代目当主となるが、梅王丸を支援する正木憲時(正木弘季の子で正木時茂の養子)が謀反を起こした。しかし義頼は翌1581年に大多喜城を攻撃し、憲時を討ち取った。


北条家との戦い

1579年ごろに正室の鶴姫が死去すると、義頼は氏政の妹・菊姫を継室とした。しかし義頼もまた父や兄と同じく北条家に敵対する意思を持っていた。


そして1580年ごろから武田勝頼佐竹義重による同盟や足利頼純と結んで再び北条家と争う構えを見せるが、1582年に武田家が滅亡するとこの盟約は破綻した。


後に北条氏政との抗争が再燃し、北条軍は何度も領国を侵攻するが義頼は何度も撃退に成功している。更に義頼は豊臣秀吉らと手を結んで連携をとるなど、卓越した外交手腕を振るった。この外交の件から後に小田原征伐に遅参したにもかかわらず里見家は存続できたとも伝わる。


1587年、安房岡本城にて44歳で死去。家督は側室の子で長男・義康が継承する事となった。


戦国無双

武器:槍 声:草尾毅(特殊セリフ時のボイスは宮坂俊蔵)(3) 荒井聡太(4)


最後には勝つ…どんな手を使ってもなあ…!」(遭遇時の特殊セリフ)


父・義堯と同じく3Empからの登場ではあるが、父と同じく特殊台詞が存在する。4Empでも父親と同じく固有のデザインで登場した。(ちなみに兄・義弘は2Empから登場しているのだが、こちらは特殊セリフなどは無い。)

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