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生涯

1868年(慶応3年)に大阪の代官の家に生まれ、1871年に関東に移り住み、海軍学校に入った。日露戦争では駆逐隊司令を務め、猛訓練から「鬼の貫太郎」「鬼の艇長」「鬼貫」の異名を持ち、日本海海戦でも敵戦艦スワロフに魚雷を撃ち込んだ。

大正時代には海軍大将連合艦隊司令長官、海軍軍令部長、水雷学校長などを歴任し、海軍次官の時はシーメンス事件の処理にも当たり、昭和時代には昭和天皇の希望もあって侍従長となり天皇の良き相談相手になった。ロンドン海軍軍縮条約に起こった統帥権干犯問題では条約賛成派となり、反対派や右翼系からは強く恨まれた。

二・二六事件では統帥権干犯問題の件によって「君側の奸」の一人とされ、安藤輝三率いる一隊に自宅を襲撃され、銃弾を四発撃たれた。安藤が止めを刺そうとしたところ、たか夫人が必死に説得したため九死に一生を得た。これにより一時政治の一線を退くこととなった。

終戦総理

1945年昭和20年4月太平洋戦争が続く中、沖縄戦に伴い小磯國昭総理大臣を辞職。枢密院議長だった鈴木は後継首相を決める重臣会議で多くの出席者から推薦を受け、反対的であった東條英機も了承。会議の結論を受け天皇は鈴木を呼び出して、組閣の大命を下した。しかし、鈴木は高齢を理由に首相の座を渋っており、また本人は軍人は政治関与するべきではないという考えを持っており、天皇にも辞退の意向を伝えたが、天皇は「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と発言。当時の内閣は天皇を輔弼(補佐)する機関であり、天皇から頼られる存在ではなかったが、このような発言は異例で、それほど差し迫った状況にあり、忠臣であった鈴木に断ることはできなかった。

かくして日本史上最大の国難の時期に政治素人の老人が総理に就任した。奇しくも首相に就任した4月7日戦艦大和の沈没の日であった。鈴木は「天皇の意」=「終戦」を汲んで総理就任したが、徹底抗戦と戦争継続を掲げる表向きと違う、終戦という内心と意図を察する者は当時いなかった。

5月にヒトラーが自殺してドイツは降伏し、日本は孤立無援状態となり、鈴木は中立関係にあったソ連連合国との講和仲介の方針を決めた。しかし、ヤルタ会談スターリンアメリカルーズベルトと密約を交わし、ソ連は対日参戦をすでに準備していたが、ソ連は日本を欺き続けて時間稼ぎをしていた。7月28日に対日降伏勧告を示すポツダム宣言が発表され、日本政府は反応を明確化せずにいようとしたが、報道機関や軍部は対応の明確化を求め、鈴木は記者会見で「ノー・コメント」という意味で発言。しかしこれを新聞は「黙殺」と報じ、欧米の新聞は「拒否」と言い換えた。

8月6日米軍広島原爆を投下し、8月9日には仲介交渉を続けていたソ連が中立条約を破って対日参戦し、米軍は長崎にも原爆投下。

9日に御前会議である最高戦争指導者会議が開かれ、鈴木は戦争継続は不可能であり、ポツダム宣言受諾を提案。軍部側との詰めの協議が長時間続いたが結論は出ず、日付が変わって鈴木は天皇に最終判断を仰ぎ、天皇はポツダム宣言受諾という「ご聖断」を下した。鈴木は会議で意見分裂が続いて天皇が最終決断を下す、という筋書きで事前に天皇と打ち合わせており、ギリギリの綱渡りで受諾決定に結びつけた。

御前会議での結論は閣議で正式決定したが、連合国側からの返答の解釈を巡って外務省と軍部は対立。8月14日、再び御前会議が開かれ、天皇は最終的に日本の降伏を決断する「ご聖断」を下した。

正式なポツダム宣言受諾の閣議決定後、陸軍代表として詰めの協議を続けてきた阿南惟幾陸軍大臣が鈴木の元を訪れ、互いに日本を思って議論を続けてきたこと、日本の未来を信じていること、お互いを認めてきたことを話し、阿南は土産の葉巻を渡すと去っていった。この時鈴木は阿南の覚悟を察しており、その数時間後に阿南は自刃した。

8月15日玉音放送が流れて国民は終戦を知り、鈴木は同日に終戦の役目を終え内閣を総辞職にした。その後一時枢密院議長となり、1948年(昭和23年)に82歳で死去した。


人物・評価

鈴木の「黙殺」によって原爆投下とソ連参戦を招いたとも言われ批判的評価は多い。本人もこの「黙殺」については後に後悔していた面はあった。しかし、原爆投下命令はポツダム宣言発表直前に決まっており、原爆投下のためにポツダム宣言と「黙殺」は後付けの口実に使われたため、上述の点から鈴木の判断を失敗として指摘はできない。ソ連との仲介交渉の失敗も、ヤルタ密約とソ連対日参戦を察知できなかった日本の情報戦の失敗によるものであり、同様に鈴木の失敗として批判はできない。

日露戦争や暗殺、総理など波乱万丈の経歴で、海軍学校での訓練は厳しかったが、基本は平凡で穏やかな性格であった。軍人は政治関与すべきではない信条を持つ政治素人であったが、軍部との綱渡りのような詰めの協議の末に、天皇のご聖断へ運び、日本を終戦へと導いた手腕は優れたものであり、原爆やソ連参戦は起こったものの、本土決戦や分割統治、クーデターに内戦などのさらなる最悪の結果を回避できた点は大きな功績と言える。

また、阿南とは単なる政府と軍部を代表するもの同士の対立関係ではなく、同じ天皇への厚い忠誠心を持って天皇の意を汲み、日本を最悪の結果から最小限に抑え続けた者同士として協力し合っていた。昭和天皇は鈴木・阿南の両名とも深く信頼していたという。

たか夫人は幼少時の昭和天皇の養育係も務めており、昭和天皇にとってはたか夫人にも信頼が厚かった。息子の鈴木一は家族で父を支えようと総理秘書官に就いた。


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