ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

8620の編集履歴

2020-07-24 23:02:49 バージョン

8620

はちろくにいまる

整数のひとつ。国鉄8620形蒸気機関車を指すことが多いため、本項目では同形式について説明する。

主に国鉄8620形蒸気機関車の事を指す略称。本項でもそれについて記述する。

概要

8620形は、日本国有鉄道国鉄)の前身である鉄道院が製造した、日本で初めて本格的に量産された国産旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車。「ハチロク」と愛称され、国鉄蒸気機関車の末期まで全国で使用された。


誕生の背景

明治末期に急行列車用として各国から輸入された8700形・8800形・8850形などを参考に、日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として設計、製造された。当時としても、あえて最高の性能を狙わずに、汎用性を追求し、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して設計された。


車軸配置は2-6-0 (1C) 型で、本来は先台車をボギー式にして軌道に対する追随性を良くするのが設計の常道であるが、本形式では先輪と第1動輪を心向キ棒で一体化した特殊な台車に置き換え、第1動輪に32mmの横動を与えて曲線通過性能を良くしている。その半径は80mで、後年開発されたローカル線用タンク式蒸気機関車であるC12形並みであった。


この方式は、オーストリアイタリアに例があった、クラウス・ヘルムホルツ式、ツァラ式に着想を得て、島安次郎が考案したものである。この方式は「島式」あるいは「省式心向キ台車」と呼ばれ、構造が簡単で曲線通過性能も良いと評された。しかし反面で、この島式は先輪フランジの偏摩耗が生じることがあり、検修サイドの評判は必ずしも良くなかったようで、本形式以外での採用例はない(機構面から言えばツァラ式が適切かもしれないが、8620形製造時点では当然これらの特許権が有効であり、高いライセンス料を払う原資を考えると、島式以外の選択肢は端からなかった。少しのちの自動連結器の交換でさえ、輸入を2社にして競争させ単価を抑えた上、最終的に自前で別機構のものを開発し特許までとり、特許料の支払いをゼロにしている)。

増備形でもある後継形式・C50は8620ほどの曲線通過性能を必要としない、という前提に立って設計されたものの、小さな置き石程度で脱線する(復元力が一定のエコノミ式1軸先台車は置き石などに弱い)、線路への横圧が高いなど8620にはなかった弱点も多数抱えている。


動輪の粘着力(摩擦力)がシリンダーの出力を大きく上回っており、「絶対に空転しない機関車」ともいわれていた。ゆえに空転に苦慮せざるを得ない乗務員からは評判がよかったが、高い粘着力は過加重などで引き出しができない場合、重要部品のコネクションロッド折損を招きかねないリスクをも内包していた。空転をある程度許容することは、蒸気機関車を含むあらゆる動力車において、機構の大規模破壊を回避する有効な手段の一つであり、本形式でその面の配慮が薄かったことは否定できない。


鉄道省向け以外の8620形

樺太庁鉄道向け(15両)、台湾総督府鉄道向け(43両)、北海道拓殖鉄道向け(2両)がそれぞれ製造された。そのうち樺太庁鉄道の8620形は後に鉄道省籍に編入されたが、戦後の消息は不明である。台湾総督府鉄道では500形(後にC95形に改称)と名乗っていたが、戦後台湾鉄路管理局に引き継がれCT150形と改称した。


8620形の付番法

8620形の製造順と番号の対応は、1番目が8620、2番目が8621、3番目が8622、…、80番目が8699となるが、81番目を8700とすると既にあった8700形と重複するので、81番目は万位に1をつけて18620とした。その後も同様で、下2桁を20から始め、99に達すると次は万位の数字を1繰り上げて再び下 2桁を20から始め…という付番法とした。したがって、80番目ごとに万位の数字が繰り上がり、160番目が18699、161番目が28620、…となる。


このため、ナンバーと製造順を対応させる公式は、


万の位の数字×80+(下二桁の数字-20)+1=製造順


となる。


例えば58654であれば万の位の数字が5、下二桁が54となるので、製造順は5×80+ (54-20) +1=435両目となる。


保存機

JR九州所属の58654号機(製造435両目)と京都鉄道博物館にて保存されている8630号機(製造11両目)が動態保存されている。


58654号機(製造435両目)

1988年(昭和63年)に静態保存から復活してJR九州に所属しており、肥薩線を運行する「SL人吉」に運用される。


1922年(大正11年)日立製作所笠戸工場製で、同年12月26日に浦上機関庫に配置され、長崎本線(この当時は現在の大村線および佐世保線のルートであった)で使用された。その後、九州各地を転々としたのち、1949年(昭和24年)6月21日付けで西唐津機関区に転属し、唐津線で使用された。1961年(昭和36年)4月20日には唐津線でお召し列車を牽引している。1964年(昭和39年)に若松機関区に転属し、筑豊各路線で使用され、1968年(昭和43年)6月1日付けで人吉機関区に転属した。湯前線での使用を最後に1975年(昭和50年)3月31日付けで廃車【この時点で8620形として最後の営業運転機でもあった】され、肥薩線矢岳駅前の人吉市SL展示館に展示されていたな。新製から廃車までに走行した距離は300万km余りであった。


1988年(昭和63年)に小倉工場で修復された。ボイラーは新日鐵八幡製鐵所で新製※し、動輪は住友金属で新たに製作するなど、大がかりな修復となり、同年8月28日から豊肥本線の「SLあそBOY」、肥薩線の「SL人吉号」として、アメリカ風に改装された50系客車とともに運転開始された。

※なお、八幡製鐵所のボイラー製造職場は後に廃止されたため八幡製鐵所にとっては復元SLに携わった最初で最後の出来事となった。ちなみに現在動態保存されてるSLのボイラーの中では最も新しいとされている。


再登場当時はほぼ原型であったが、1993年(平成5年)ころに客車のイメージにあわせて水戸岡鋭治の監修下に濃緑色に塗装され、除煙板が取り外され、カウキャッチャーが取り付けられたこともあった。沿線の山林で列車通過後に火災が起きてからは回転火の粉止めを装備し、体裁を整えるためダイヤモンドスタック型の煙突カバーが常用されるようになった。また、ATSもATS-SK形に換装された。


しかし、元々古い車両だったために老朽化が進んでおり、台枠の歪みにより機体のバランスが崩れたために車軸などに負担がかかり車軸焼けなどを起こすようになっていた。当初は修復不可能と判断され、2005年8月28日をもって列車の運転が休止された。それに伴い機関車も一旦静態保存されることとなったが、JR九州としては動態保存の可能性を模索し、除籍を行わなかった。その後の調査により奇跡的にも日立製作所に製造時の図面が残されていると判明したことや、九州新幹線の延伸開業などもあり観光資源として有効活用できるとの判断から、台枠を日本車両で新製、ボイラをサッパボイラで修繕するなど約4億円の費用(客車等の修復も含む)をかけ2007年2月21日よりJR九州小倉工場にて修復を実施し、2009年4月25日より熊本駅 - 人吉駅間で運転が開始された。列車名は運転休止前に同区間を運行していた際の名称から「号」を省いた「SL人吉」とされた。


余談ではあるが、もっとも古い8620形の58654号機58654号機の浦上機関庫への新製配属の翌日に日本海軍の航空母艦鳳翔が竣工している。


8630号機(製造11両目)

京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に保存されている。1914年(大正3年)汽車会社製で、平機関区や弘前運転区に所属した。梅小路蒸気機関車館開館の時点で車籍を有する8620形の中では最も番号の若い車両であった。1979年(昭和54年)に車籍を抹消されているため営業路線上を運行することは不可能であるが、館内の線路上で「スチーム号」を牽引して走行することがある。


このほか日本各地に静態保存機が存在する。中でもトップナンバーの1号機(ナンバープレートは8620)は青梅鉄道公園に保存されている。また、台湾向けと北海道拓殖鉄道向けの8620形もそれぞれ1両ずつ保存されている


余談

第1号機である8620号機(青梅鉄道公園保存機)の新製配属は鳥栖機関庫(→鳥栖機関区)、国鉄時代最後の営業運転機であった58654号機(現在のSL人吉牽引機)の最終配属が人吉機関区と最初と最後を奇しくも九州で迎えるという事になった。


花輪線の貨物列車では急勾配区間であった龍ヶ森(現・安比高原)付近で三重連で牽引したこともあり、SLブームの折には撮り鉄の注目を集める事になった。


関連タグ

鉄道 国鉄 蒸気機関車 9600

まいてつ メインヒロインが8620の1号機の擬人化。九州をイメージした土地が舞台であるが、現実の1号機は青梅鉄道公園にて静態保存されている。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました