生涯
大陸北方、幽州遼西群出身。
有力豪族に生まれたが、生母の身分が低いために公孫家の一員とは認められず、過酷な少年時代を送ったらしい。しかし、聡明で頭の回転も速く、声が大きく、容姿が優れ、弁舌さわやかで、物事の説明も巧みであったという。これが太守に気に入られ、盧植の下で経書・兵学を学ぶ機会を得る。この時の学友に劉備がいる。
北方の太守張純と烏桓族が反乱を起こすと、鎮圧軍の指揮をとって大勝を収め、勇将として名を馳せる。しかし、対異民族政策で強硬策を主張して、人徳による懐柔を目指す上司劉虞と対立し始める。その後、密かに袁術と同盟。この頃趙雲が配下に加わっている。
やがて黄巾の乱が始まると、北方に流れ込んできた30万もの大軍をわずか2万で打ち破った。
その後は袁術・孫堅と袁紹の戦いに介入し、袁紹と対立する。しかし、派遣していた従兄公孫越が戦死してしまい、そのことに激怒。自ら軍を率いて出陣し、数年に渡って袁紹と一進一退の攻防を繰り広げた。しかし、結局は敗れて退却している。
その後は劉虞の城の東南に小さい城を造営し、そこを拠点とした。この頃になると劉虞との溝は決定的となっており、反乱を警戒した劉虞は、公孫瓉襲撃を行う。しかし、公孫瓉はそれを逆手に取って劉虞を捕縛。朝廷に讒言して一族郎党もろとも処刑した。
しかし、一部の生き残りが異民族と手を組んで反撃を開始。更に宿敵袁紹が劉虞の遺児を擁立して攻撃してきたたため、窮地に立たされてしまう。
袁紹からの降伏勧告を無視した彼は、堅城易京城に籠城。何度か敵を退けるも、最終的には物量差と味方の結束の崩壊で敗北。最後は居城に火を放ち、妻や末子らを刺し殺した後自害して果てた。一部の家臣はそれに殉じている。
白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。「白馬将軍」の名でも知られる。
『優秀な人間は、取り立ててやっても当然と思うだけで恩義を感じない』という理由で、凡庸な人物を重用した。その一方で、当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで莫大な利益を得ていたという。
旧知の劉備をいろいろと援助したり、反董卓連合に加わったり、というのは『三国志演義』上のフィクション。ここでは呂布に負け、袁紹に負け、と散々な目に遭い、その都度劉備・関羽・張飛や趙雲に救われる引き立て役となっている。
ちなみに
諸葛、公孫、夏候など、中国で姓が2字になる家系って、特別な家系らしいです。
別名・表記ゆれ
かつては「瓉」はJISの文字に無かったが、「JIS X 0213」で登録されている。
とは言え、タグとしてはほとんど普及していないので、「瓉」の文字が使えない場合は以下の表記が使われる。