※本馬をモデルとするウマ娘については、マルゼンスキー(ウマ娘)の記事を参照。
※現役時代の馬齢は旧表記で記載。
生涯
誕生からデビューまで
1974年5月19日生まれ。父はイギリスの三冠馬ニジンスキー。母はシル。母父バックパサー。バックパサーの娘はニジンスキーと非常に相性の良いニックス配合(相性の良い組み合わせ。ステマ配合等が有名)と言われていた。
当時の日本の馬産のレベルは決して高くなく、外国産馬といえど名馬と血統の似通った代用種牡馬等の購入が主流の時代にあって、三冠馬の直仔という良血中の良血馬。母馬の購入価格は当時の価格で約9000万円という、大レースに出られないにも拘らず破格の値段で落札された。
しかし、マルゼンスキーは外国で受胎し日本で生まれた馬であった。こうした馬は「持込馬」と呼ばれ、1970年代当時は外国産馬と同じ扱いで、旧八大競走の中では有馬記念だけしか出られなかった。
- 元々持込馬は内国産馬と同じ扱いで別にクラシック競走や天皇賞への出走制限がかけられていなかったが、1971年に活馬(生きている馬)の輸入自由化が行われた結果、その見返りとなる内国産馬振興策の一環として、1971年6月30日以降持込馬は外国産馬同様の扱いを受けることになってしまった。
- なお、この制限は1983年一杯を持って廃止されており、1984年からは持込馬もクラシックなどに参戦できるようになった。マルゼンスキーはその狭間の時代に生まれた馬と言える。
また、足も外向しており、脚部不安が常につきまとっていた。
競走馬時代
3歳(1976年)
1976年の7月にデビュー。騎手は引退まで一貫して中野渡清一が務めた。新馬戦を大差勝ちすると、次走の府中3歳ステークスでは、控える競馬を行ったことが災いしたのか、2着ヒシスピードに唯一の鼻差という辛勝だった。
そして、次走の本番・3歳王者を決める朝日杯3歳ステークスに出走した際、管理調教師の本郷重彦は
「責任は俺が取るから、前に行って離せるだけ離してこい。」
生産者のオーナー橋本善吉(橋本聖子の父)も
「このレースだけは絶対に勝ってほしい。」
と述べ、これに応えて中野渡とマルゼンスキーはレースをスタート、スタートから一気に先頭に立つと、そのままほぼ馬なりで他の馬を一頭も寄せ付けずに1着でゴールイン。2着ヒシスピードに13馬身(大差)突き放しての完勝だった。このレースでの主戦・中野渡は
「ただマルゼンスキーにつかまっていただけ。4コーナーじゃ他の馬の足音も聞こえなかった。」
と述べ、2着ヒシスピードの鞍上・小島太も
「ありゃ化け物だわ。」
と脱帽するしかなかったという。加えて勝ちタイム1分34秒4は当時の3歳マイル戦レコードタイムで、1989年に同じく朝日杯にてアイネスフウジンがレコードタイの1分34秒4で優勝し、さらに翌1990年に同レースでリンドシェーバーが1分34秒0で優勝して更新するまで君臨した。同年の優駿賞最優秀3歳牡馬を受賞。
4歳(1977年)
出るレースすべてに連勝を重ねたマルゼンスキー。
折りしもこの頃はスーパーカーブームであり、中野渡が「スーパーカーのような乗り心地だ。」と言ったことからマルゼンスキーには「スーパーカー」の異名が付いた。
しかし、当時の規定により、日本ダービーに出られなかった。
この時に中野渡はこう言った。
28頭立て(※)の大外枠でもいい。
賞金もいらない。
他の馬の邪魔もしない。
だからマルゼンスキーを出させてくれ。
そうすれば、どの馬が一番強いのかが分かる。
※当時のフルゲートは28頭。
この年に日本ダービーを優勝したのは、ラッキールーラだった。
結局、次に選び、当時残念ダービーと呼ばれていた日本短波賞(芝1800m)では、ほとんど「遊びながら」後の菊花賞馬プレストウコウに7馬身差を付けての圧勝。
クラシックへの出走は叶わなかったが、世代最強は間違いなくマルゼンスキーと認知され、上の世代との対決にも注目が集まった。
1歳上の世代は、トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラスの三強「TTG」であった。
上記の通り、マルゼンスキーにとっては八大競走の中では有馬記念しか出られなかった。
人気投票ではTTGに次ぐ4位だったが、直前の追い切りにて屈腱炎を発症してしまい、引退を余儀なくされた。この年の有馬記念はトウショウボーイ・テンポイントの伝説級のマッチレースとなった名勝負だったが、後に中野渡はその有馬記念にマルゼンスキーが出走できていたらとの問いに、こう答えている。
「おそらく、トウショウボーイとテンポイントのさらに前を走っていただろう。」
獲得賞金は7660万1000円、8戦8勝、無敗での引退。僅か8戦で付けた2位との合計着差はなんと61馬身。
その圧倒的な成績から大レースには出走できなかったものの、引退式には「さようなら マルゼンスキー 語り継ごう お前の強さを」との横断幕が掲げられた。
種牡馬時代
イギリス三冠馬ニジンスキーを父に持つ血統からマルゼンスキーは種牡馬となり、1982年には、ホリスキーが菊花賞を優勝し、種牡馬としてGⅠ級競走初勝利を挙げた。
1988年にはサクラチヨノオーが日本ダービーを優勝し、自身の無念を晴らす。
マルゼンスキー自体は早期引退の影響もあり走った最長のレースが日本短波賞の芝1800mであり、長距離の実績は無かったが、産駒はホリスキーを初め長距離での実績を残している。この点がますます八大競走に出走していれば…という声を高める事となった。
こうした競走成績と種牡馬成績が評価され、1990年に顕彰馬に選ばれた。
また、ブルードメアサイアーとしても、ライスシャワー、ウイニングチケット、スペシャルウィークを輩出している。
1997年8月21日に心臓麻痺により繋養先の北海道早来町・橋本牧場にて23歳(旧24歳)で死去した。
主な産駒
GⅠ級勝利馬
※1983年以前は旧八大競走のみ。
ホリスキー('82菊花賞)
スズカコバン('85宝塚記念)
サクラチヨノオー('87朝日杯3歳ステークス、'88東京優駿)
レオダーバン('91菊花賞)
その他重賞勝利馬
サクラトウコウ('83新潟3歳ステークス、'86七夕賞)- ネーハイシーザーの父
タシロスプリング(2000 ファンタジーステークス) - 産駒最後の重賞勝ち馬。
母の父として
ライスシャワー('92菊花賞・'93,'95天皇賞・春)
スエヒロジョウオー('92阪神3歳牝馬ステークス)
ウイニングチケット('93東京優駿)
メジロブライト('98天皇賞・春)
スペシャルウィーク('98東京優駿、'99天皇賞・春、天皇賞・秋、ジャパンカップ)
プリモディーネ('99桜花賞)
メジロベイリー('99朝日杯3歳ステークス)
関連動画
関連タグ
ミドリマキバオー - 母の父として登場。ただし名前は「マルゼニスキー」となっている。
グラスワンダー - 1997年朝日杯3歳ステークスでさらに1分33秒6のレコードタイムで優勝、この勝利を実況した三宅正治フジテレビアナウンサーは「マルゼンスキーの再来」と表した。