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山県有朋の編集履歴

2012-03-05 23:44:46 バージョン

山県有朋

やまがたありとも

(天保9年閏4月22日~大正11年2月1日)  第3・9代内閣総理大臣。従一位大勲位。元帥陸軍大将。公爵。

天保9年(1838年)閏4月、長州国萩ノ城下に生まれた。

父の有稔は毛利藩としては最下層の武士階級の蔵元付仲間に属していた。

5歳で母の松子を亡くし、父は23歳の時に死去した。


21歳の時に藩から京都に派遣されると、尊攘思想の洗礼を受け、久坂玄瑞の紹介で、帰藩後吉田松陰の松下村塾に入門した。

短期間ではあったが山県は松陰に強い影響を受け、生涯師として敬事した。

山県は後には高杉晋作が建軍した奇兵隊の軍監になり、また明治維新にはこれを率いて長岡攻囲戦にのぞんでいる。


山県は非常な現実主義者で、西郷隆盛を説得し、国軍を創設し、廃藩置県を助け、徴兵令を施行し、陸軍大輔として六菅鎮台を設置して我国兵制の基礎を築いた。

初代の陸軍卿となり、西南戦争を徴兵の軍隊によって勝利に導いた。


政治家としては、伊藤博文憲法調査のため渡欧すると、その留守を預かって参事院議長となり、後半生の活動活動をここに開始した。

後には地方自治制度を創設し、内閣総理大臣として超然主義をもって初期議会の運営にあたり、日清日露の戦役を戦いとり、一方では派閥の領袖として「元老政治」を行うなど、政治家としても辣腕を振るった。


大正11年2月1日、山県は斑雪の残る湘南小田原の別邸・古稀庵で、85歳の生涯を閉じた。


明治政府の成し遂げた日本近代化への道程は、維新の三傑西郷隆盛城戸孝允大久保利通の亡き後、伊藤博文と山県有朋の政治的手腕に負うところ大であった。

軍閥財閥政党の三つの関係の中でいずれが政治を壟断し、国民の福祉を進めたといえるであろうか。

歴史の審判はまだ早いというべきか。

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