概要
1968年8月31日生まれ。 大阪府出身。ポジションは投手。右投右打。
やや遅咲きの選手で、高校も野球の強豪校ではない公立学校の大阪府立成城工業高等学校だったが、ここで才能が開花。甲子園出場こそ出来なかったものの、エースとして府大会で好成績をマークし、高校卒業後に社会人野球を経由してプロ入りした。
1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得。(その時の代表は全員アマチュアで潮崎哲也、野村謙二郎、古田敦也、笘篠賢治ら13人がプロ入り、應武篤良が社会人を経て早稲田大学野球部監督に就く。)
おそらく、日米のプロ野球史上、5本の指に入ると言っても過言ではない偉大なピッチャーであり、日本人のMLB挑戦への道を本格的に切り開いたパイオニアである。
なお、知らない人が多いが、日本人初のメジャーリーガーは野茂ではなく村上雅則である(1964年から1965年までサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした)。
1989年のドラフトでは阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズから指名を受け、史上最多となる8球団による競合の末に交渉権を獲得した近鉄に入団する。
ルーキーイヤーである1990年には、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占し、ベストナイン・新人王・沢村賞・MVPにも輝いた。
だが、1993年から近鉄の監督となった鈴木啓示と投球フォームや調整法などを巡って対立。以前より球団上層部に対して不満を募らせていたこともあり、1994年の契約更改で交渉が難航したことを機に「任意引退」という形で近鉄を去り、メジャー挑戦を決めた(なお、現在の協約では、任意引退した選手は国内外を問わずプロ野球球団と契約することは出来ない)。
翌年の1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。同年5月にメジャー契約を勝ち取ってメジャー初登板を果たし、日米で一世を風靡する。この年は最多奪三振・新人王も獲得。
1998年以降は球団を転々としながら活躍し続けたが、2004年以降は肩や肘の故障に泣かされ、成績も低迷。
2008年にロイヤルズに移籍。一度はメジャーに復帰するものの結果を残すことが出来ず、4月に戦力外通告を受ける。5月に東北楽天ゴールデンイーグルスが交渉の意思を示したものの入団には至らず、7月17月に共同通信のインタビューで「プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せない」として引退を表明。翌2009年に名球会入り。
引退後は臨時コーチや野球解説者として活動し、2016年にサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任する。
また、現役時代の2003年に大阪府堺市を本拠地に、社会人野球『NOMOベースボールクラブ』創部。
2013年に本拠地を兵庫県豊岡市へ移転、現在に至る。
MLBでの球団遍歴↓
ロサンゼルス・ドジャース(1995-1998)
ニューヨーク・メッツ(1998)
ミルウォーキー・ブルワーズ(1999)
デトロイト・タイガース(2000)
ボストン・レッドソックス(2001)
ロサンゼルス・ドジャース(2002-2004)
タンパベイ・デビルレイズ(2005)
シカゴ・ホワイトソックス(2006)
レオネス・デル・カラカス(2007)※ベネズエラのプロ野球チーム。
カンザスシティ・ロイヤルズ(2008)
1996年にドジャースで、2001年にレッドソックスでノーヒットノーランを達成している。野茂はMLBの両リーグでノーヒットノーランを達成した史上4人目の投手であるが、その中で初めてアメリカ野球殿堂入り資格を喪失した人物でもある。またクアーズ・フィールド、オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズの2球場はいずれも野茂が球場初のノーヒッター投手になっている。
度々移籍をしていたのでMLB全30チーム相手から勝利する可能性を持っていたが、ドジャースからだけは最後まで白星を挙げられなかった。しかし30球団中29球団からの勝利は黒田博樹と並び日本出身の投手では最多タイ記録である(2020年時点)。
日米通算は現役17年で、201勝155敗、その内メジャー通算123勝は日本人メジャー投手にとっては未だにアンタッチャブルレコードである(2020年現在)。
ちなみに、長男は北海道日本ハムファイターズの球団通訳を務めている。
また2023年のWBCで、野茂がメジャー時代にバッテリーを組んだドジャースのマイク・ピアザがイタリア代表で、ブルワーズのデーブ・ニルソンがオーストラリア代表で監督を務め、日本代表と対戦する。(オーストラリアは3月12日に1次ラウンドB組で対戦、イタリアは3月16日に準々決勝で対戦。)
プレイスタイル
大きく振りかぶってから打者に背中が見えるほど上体を大きく捻って投げるトルネード投法が彼の武器であり、代名詞でもある。
「どれだけ速い球を投げられるか」ということを小さい頃から考えて投げ続けた結果、高校の頃には原型となるフォームが出来上がっており、高校時代の監督は「つむじ風投法」と呼んでいた。
その投球フォームゆえに細かい制球力を欠くものの、平均150km/h台の威力あるストレートと、社会人時代にモノにしたフォークボールを武器に真っ向から三振を獲りにいくパワーピッチャーであり、その奪三振率の高さから「ドクターK」の異名で呼ばれた(野球では三振をKで表す習慣がある)。
2000年代に入ってからはカーブやツーシーム、カットボールも投げていた。引退後オリックスの臨時コーチに就いた時にはサイドスローからフォークを落としてみせるなど、イメージとは異なる器用な一面を持つ。
関連タグ
新日鐵住金:前身の、新日本製鐵堺(勤務先は子会社の新日鐵化学)に所属、ドラフト指名後、新日鐵のCMに出演。