概要
日本の漫画家。(1955年3月30日~2023年9月8日)
本名は「武一(たけいち)」と読む。
手塚プロダクション勤務の後、1977年にプロ・デビュー。
代表作は『コブラ(COBRA)』。綿密なタッチの作画、独特な世界観とデザイン、妖艶な美女、三枚目なルックスながらハードボイルドな主人公「コブラ」などが人気を博した。作画にこだわるあまり週刊連載に満足できなくなり、途中からある程度書きためてから連載するというやり方になった。
漫画制作にパソコンを用いたパイオニアであり、後進に多大な影響を与えている。
手塚治虫がパソコンで絵を描くことに対して意見を求められたとき「寺沢君にやらせてみたらどうかな」と言ったと死後に聞き師の遺言と解釈した事によるが、手塚は癌と知らされておらず、そんな重い話ではなく雑談の一環だった。
CG作画による漫画第一号は、1985年発表の「BLACK_KNIGHT_バット<黒騎士バット>」だったが、当時のパソコンの性能の限界から高い評価は得られなかった。
略歴
1974年、旭川東高等学校を卒業。大学受験に失敗し、浪人時代、投稿漫画賞の賞金目当てに漫画を描いていた。
1976年、本格的に漫画家を目指したくなり手塚プロダクションのアシスタント募集に応募。しかし手塚治虫に対してはそれ程思い入れもなく、生意気な態度のため不採用となるが、たまたま絵を見た手塚治虫の「こんな凄い絵を描ける奴を何で落とすんだ!」という鶴の一声で採用。手塚プロダクションの漫画部スタッフとして勤務する。
1977年、「大地よ、蒼くなれ」で第13回手塚賞佳作に入選。『週刊少年ジャンプ増刊号』(集英社)に読み切り短編「コブラ」が掲載されデビュー。
1978年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)で「コブラ」を連載開始。ヒット作となり1982年に最初のアニメ化。
1987年、寺沢プロダクションを設立。『コミックバーガー』(スコラ)で「ゴクウ」、『フレッシュジャンプ』で「NINJAカブト」を連載開始。
1992年、『コミックバーガー』誌で世界初のフルCG漫画「武 TAKERU」を連載開始。
1998年、悪性の脳腫瘍なのが判明。再発の度に手術を行い脳のかなりの部分を切除したため、言動がおかしくなった。左半身麻痺で要介護4となり、漫画家としての活動は休止。
2005年、『コミックフラッパー』(KADOKAWA)で「COBRA」の新作である『マジックドール編』を連載した。
2019年、寺沢の介護を行っていた葵正美(自称アシスタント)がデイリー新潮に寺沢のセクハラを告発。しかし、葵は以前に方々で「○○先生の愛人になりたーい」と発言しており、2018年に寺沢のスタッフになるとツイッターを乗っ取り、ツイキャスで「目の前のバカが何億稼ぐか自分の手にかかってる」と笑っていた。寺沢に睡眠薬を投与するなど危険な行為があったため解雇されたが、それを恨んでの告発と言われる。このためツイッターの公式アカウントは長らく鍵アカとなっていた。
2023年9月11日、X(旧Twitter)で森田まさのりが「寺沢武一先生が亡くなられた。交流があったわけではないけど、その先進性と超絶技術は尊敬して止みません。心からご冥福をお祈りします。」とポスト(旧ツイート)。
その後、公式Xで株式会社寺沢プロダクション代表・古瀬学により「漫画家・寺沢武一は2023年9月8日に永眠しました」「3度の脳腫瘍の手術を経ても、コブラその人のような生命力で生き抜いてきた寺沢武一でしたが、今回は本人も不意打ちを食らってしまったのでしょう。心筋梗塞でした」と発表された。
アメコミ影響説について
アメコミっぽい作風の漫画家として有名だが、本人はアメコミに手を出したことはあまりなく、COBRAでもそれほど意識していないという。
ただし、師匠である手塚治虫からディズニーアニメ、特にピーターパンを意識しなさいと言われたため、ミッキーマウス、アラジンのランプの魔神など、ディズニーキャラクターを元ネタにした多数のキャラクターが出てくる。
1977年に原作コミックが創刊され1981年に劇場アニメ版が封切りされたアメリカのアニメ、HeavyMetalには根強い影響を受けたと語っている。