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木曾義仲の編集履歴

2013-08-31 07:46:16 バージョン

木曾義仲

きそのよしなか

平安末期の武将の一人、源義仲の通称。

平安時代末期の信濃源氏武将

源義仲ともいわれる。異字体で木曽義仲とも書かれる。


概要

 河内源氏の一族、源義賢の次男で、幼名は駒王丸

 幼少の時、父・義賢が甥の源義平に殺され、その後斎藤実盛らの情により、木曾の山中に匿われ成長する。通称を「木曾次郎」と呼ばれた。

 治承四年(1180)、以仁王の令旨によって平家追討の挙兵をし、寿永二年(1183)、砺波山で平維盛を敗り、入京する。

 そこでその功を賞して「朝日将軍(旭将軍)」の称号を後白河法皇から与えられたが、その後の木曾軍の粗暴な行為に困られ、法皇は密かに源頼朝に義仲追討命令を出した。

 寿永三年(1184)、義仲は頼朝が差し向けた源範頼・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。


容貌

「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」

「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」

(『源平盛衰記』)


関連人物

源義賢 - 父

中原兼遠 - 育ての親。

山吹 - 妻。兼遠の娘。

木曾義高 - 嫡男。

源頼朝源義経 - 従兄弟。

巴御前 - 妾。信濃国の武将とされる女性。

今井兼平樋口兼光根井行親楯親忠 - 配下。義仲四天王と呼ばれた。

覚明 - 右筆。


関連書籍

吾妻鏡 源平盛衰記 玉葉 平家物語

百錬抄 吉記


関連タグ

源平 富山 長野 諏訪大社

平安時代 日本史 歴史創作

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