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ラッキー・ルチアーノの編集履歴

2014-03-30 11:13:48 バージョン

ラッキー・ルチアーノ

らっきーるちあーの

現代マフィアの生みの親。ボス達のボス

1897年11月11日~1962年1月26日

コーサ・ノストラ、マフィアといった言葉でわれわれが連想する組織を一代で作り上げた、犯罪史上の天才。

 シチリアの都市パレルモ(現在セリエAで首位争いしている)近くの極貧家庭に生まれ、1906年11月渡米。翌年万引で検挙されてから犯罪街道まっしぐら。幼少の頃からマフィアとしての天分を持ち、子供たちからの用心棒代徴収や、強盗などその能力を遺憾なく発揮、10代の頃より同世代のマフィアのリーダーだった。

 当初ニューヨークの有力マフィアの一人ジョー・マッセリアの組織に所属していたが、イタリア人同士の対立にはできる限り関与せず中立の立場にいた。

だが、1920年後半にマッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノの抗争が本格化したころ(カステレマレーセ戦争)、マッセリアに危険人物とみなされ、数名の刺客を差し向けられる。ルチアーノはナイフにより多くの傷を負うが、一命はとりとめる。(彼は右目のマブタが垂れ下がっているが、この時の傷でマブタの筋肉が損傷したためといわれる)

 回復したルチアーノはマッセリアの仕業と断定、復讐を決意し、マランツァーノに内通する。1931年、コニー・アイランドのレストランでマッセリアとの会合をマランツァーノに連絡。食事中にタイミングを計ってルチアーノがトイレに行っている間にマランツァーノの部下が急襲、マッセリアは射殺される。

 返す刀でマランツァーノとその一派40人以上を殺害、コーサ・ノストラの最高幹部に就任した。その後はマフィアの実質的トップとして数々の改革を行い、古い因習が支配していたマフィア組織を近代的な犯罪組織へと作り変える。

1936年、ルチアーノは売春あっせんで逮捕され、監獄入りとなるが、彼は刑務所の中から組織をコントロールしていた。

 事実は不明だが、第二次世界大戦中には、ハドソン川の波止場で行われていたドイツスパイによる妨害破壊行為を、政府に頼まれて鎮圧したという。

また連合軍のシシリア島上陸作戦の援助を要請され、見返りに減刑を提供する、という米政府との取引もあったと言われている。

 アメリカ追放後もレバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンでモルヒネに加工させ、トロール漁船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。

 常に犯罪組織に大きな影響を与え続けたが、生きてアメリカの土を踏むことはなかく、イタリアのナポリで余生を送っていた1962年に心臓病で死亡した。その遺体はニューヨークのセント・ジョーンズ墓地に埋葬された。

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