ゴリツィア(重巡洋艦)
ごりつぃあ
概要
ザラ級重巡洋艦の4番艦。1930年3月17日に起工され、1930年12月28日進水、1931年12月23日竣工された。
1936年8月にドイツの観艦式に参加した時のこと、式後の帰路の際に爆発事故を起こす。その後1937年に武装改装される。艦橋の側面にあった、10cm(47口径)連装高角砲を左右あわせて2基とヴィッカーズ・テルニ40mm機関砲4基と12.7mm単装機銃4丁を撤去し、近接火器としてブレダ37mm(54口径)機関砲を連装砲架で4基、13.2mm機関銃を連装砲架で4基ずつを搭載した。
1940年6月10日、イタリア海軍は、第二次世界大戦に枢軸側として参戦しイギリスに宣戦布告。同年7月9日、イギリス海軍地中海艦隊とのカラブリア沖海戦に参加となった。11月11、12日、イギリス海軍によるタラント空襲にあう。この際ソードフィッシュ1機を撃墜する。だが、1941年3月28日のマタパン岬沖海戦にてゴリツィアの目の前で、同型艦3隻を失った。同年年8月、イギリス海軍のミンスミート作戦に対する迎撃に参加や、1941年9月、イギリス海軍のハルバード作戦に対する迎撃に参加し、わずかな戦果を上げてきた。
1943年4月10日、空襲からの退避先ラ・マッダレーナでアメリカ軍のB-24八十四機による空襲に遭い、直撃弾3発を受け大破したものの、ラ・スペツィアへ移り修理を受けた。しかし、同年9月に、イタリアが降伏したため、ゴリツィアはドイツ軍に鹵獲された。すでに制海権は連合国側に渡っていたため、ドイツ軍はゴリツィアの本格的な復旧を諦め、港内への敵艦侵入を妨害する閉塞船として係留するに留めた。そして、1944年6月26日、ドイツ軍に戦力化されることを恐れた連合国軍の手で、停泊中のゴリツィアを撃沈した。その際使用されたのは、イタリア軍の特殊潜航艇チャリオットであり、元友軍に沈められるという最期となっている。
その残骸は1946年解体処分となった。