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概要編集

イタリア海軍が建造したザラ級重巡洋艦1番艦。

艦名は、アドリア海に面するクロアチアの都市「サダル」のイタリアでの呼び名「ザーラ」から。


1929年7月4日起工、1930年4月27日進水、1931年10月20日竣工。


1940年6月10日、イタリア王国が連合国への宣戦布告。ザラはタラントに配備されていた第2艦隊に所属する第1戦隊司令官ぺッテグリーノ・マッテウッチ少将の旗艦であった。

7月9日、カラブリア岬沖海戦に参加し、イギリス地中海艦隊と交戦。

8月31日~9月2日、イギリス軍のハット作戦MB3作戦に対して艦隊と共に出撃するも会敵せず。

9月29日~10月1日、イギリス軍のMB5作戦に対して艦隊と共に出撃するも会敵せず。

11月10~11日、タラント空襲。ザラは被爆、被雷はしなかったが戦艦3隻が大破着底する被害を受けたイタリア艦隊はナポリへ移動。

12日から12月9日までラ・スぺチアでメンテナンスを受ける。(その間、第1戦隊旗艦はフィウメ)

14日、ナポリが空襲を受ける。翌日、ラ・マッダレーナへ移動。

16日、カルロ・カッタネオ少将が第1戦隊司令官に就任。ザラは引き続き旗艦任務にあたる。

20日、ナポリへ移動。

23日、タラントへ移動。


1941年3月26日、アレクサンドリアからギリシャへ向かうイギリス輸送船団を目標としてザラを旗艦とする第1戦隊はアンジェロ・イアチーノ中将率いる艦隊に参加しタラントより出撃。

3月28日、輸送船団の護衛に出撃したイギリス海軍とクレタ島西岸沖で交戦(マタパン岬沖海戦)。第一戦隊のポーラが被雷して航行不能となり、21時6分にイチアーノ提督よりポーラ曳航の命を受けたカッタネオ提督は第9駆逐艦戦隊の護衛のもと第1戦隊を反転させ、駆逐艦の燃料不足による速度制限もあり漸く22時20分に現場に到着したが、この折に3500mという至近距離からの戦艦3隻を中心とするイギリス地中海艦隊のレーダー射撃による迎撃を受ける。

レーダーを持たないイタリア側には完全な奇襲でザラの主砲は艦中心線に向けられており、戦艦の主砲弾などにより5分間あまりの短時間で無力化された。辛うじて応戦出来たのは機銃だけであった。

船体自体は致命的な損傷は受けてはいなかったものの、その惨状にカッタネオ提督はザラを自沈させることに決め、志願したドメニコ・バスティアーニ中佐達がその作業にあたっていたが、その最中にイギリス海軍駆逐艦ジャーヴィスの雷撃を受け、そのうち2本が命中し、29日2時40分ザラは撃沈された。

カッタネオ提督、艦長ルイジ・コルシ大佐を含む728名が戦死し、279名がイギリス側に救助された。



余談編集

マタパン岬沖海戦では、ザラの他に第1戦隊のポーラ、フィウメ、第9駆逐艦戦隊の駆逐艦ヴィットリーオ・アルフィエーリジョズエ・カルドゥッチも沈没した。

イギリス艦隊が近距離に居るにもかかわらずイタリア艦隊司令長官イアチーノ提督がポーラの救援を命じたのは、それまで空軍からの情報が誤報だらけだったので陸上からの英艦隊の観測を信じたが、それも間違っていた為と言われる。


姉妹艦編集

2番艦:フィウメ(重巡洋艦) 3番艦:ポーラ(重巡洋艦) 4番艦:ゴリツィア(重巡洋艦)


艦隊これくしょんの艦娘についてはザラ(艦隊これくしょん)を参照のこと。


外部リンク編集

wikipedia:ザラ_(重巡洋艦)

関連タグ編集

重巡洋艦 イタリア海軍 ザラ級重巡洋艦 クロアチア サダル

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