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概要
艦名は、アドリア海に面するクロアチアの都市「ポーラ」(セルボクロアチア語読みは「プーラ」)から。
艦橋と第一煙突が一体化した艦形からポーラ級重巡洋艦と呼称する声もあるようである。
1931年3月17日起工、1931年12月5日進水、1932年12月21日竣工。
1940年6月10日、イタリア王国が連合国への宣戦布告。
この時、ポーラは重巡洋艦を主力とした第2艦隊司令長官リッカルド・パラディーニ中将の旗艦であり、12日にはパラディーニ提督の指揮のもとポーラは第2艦隊を率いてシチリア海峡への機雷敷設作戦支援のため出撃している。
7月9日、アフリカ向け船団護衛の為に第2艦隊率いて出撃したポーラはイニーゴ・カンピオーニ中将率いる戦艦を主力とする第1艦隊と共にイギリス地中海艦隊と交戦するも敵艦に命中弾を与えられず。またイタリア空軍の誤爆を受けるも幸いに命中弾は無かった。(カラブリア沖海戦)
25日、健康を害したパラディーニ提督に変わってアンジェロ・イアチーノ中将が第2艦隊司令長官に就任し、ポーラは引き続き旗艦となった。
8月31日、9月29日、第2艦隊を率いて戦艦が増強された第1艦隊と共にイギリス輸送船団掃討のため出撃するも、イギリス側が退避した為に会敵せず。
11月11~12日にタラント港でフェアリーソードフィッシュ雷撃機の夜間爆雷撃を受けるも被弾、被雷せず。ただしイタリア側は戦艦3隻が大破着底し、以後、イタリア艦隊の活動は消極的なものとなる。
27日のスパルチヴェンテ岬沖海戦に第2艦隊を率いて第1艦隊と共に参加。消極的なカンピオーネ提督の指揮の中でイギリス艦隊と短時間ながらも交戦したイアチーノ提督と共に勇名をあげる。
12月9日にイアチーノ提督はカンピオーニ提督の後任となり、また組織改革が行われ第1艦隊、第2艦隊は統合され、ポーラは旗艦の座を降りる事となる。
14日、ナポリ停泊中にイギリス爆撃機の襲撃を受け2発を被弾し、副長をはじめ55名の死傷者を出す。
1941年3月26日、アレクサンドリアからギリシャへ向かうイギリス輸送船団を目標としてタラントより姉妹艦であるザラ、フィウメと共に第1戦隊を形成し、イアチーノ提督率いる艦隊に参加した。
3月28日、輸送船団の護衛に出撃したイギリス海軍とクレタ島西岸沖で交戦(マタパン岬沖海戦)。空襲によるヴィットリオ・ヴェネト被雷後に三列からなる緊密な隊形をとっていたイタリア艦隊は再びイギリス空母フォーミダブルのフェアリーアルバコア雷撃機の攻撃を受け、僚艦フィウメと衝突する危険から満足に回避行動をとれなかったポーラは艦中央部に魚雷1本を被雷し機関も電力も停止して航行不能となる。
夜、第1戦隊司令官カルロ・カッタネオ少将が率いるザラ、フィウメ、駆逐艦4隻がポーラの救援に向かったが、夜間に戦艦3隻を主力としたイギリス地中海艦隊の奇襲迎撃を受けて駆逐艦2隻を残し壊滅。残されたポーラは夜明け間近の為に拿捕を諦めたイギリス側により駆逐艦ヌビアの雷撃で弾薬庫が爆発炎上し3月29日4時3分に沈没した。
328名が戦死を遂げ、艦長のマンニオ・デ・ピサ大佐を含む713名がイギリス側に救助された。
余談
マタパン岬沖海戦では、ザラ、フィウメ、駆逐艦ヴィットリーオ・アルフィエーリ、ジョズエ・カルドゥッチも沈没した。
イギリス艦隊が近距離に居るにもかかわらずイタリア艦隊司令長官イアチーノ提督がポーラの救援を命じたのは、それまで空軍からの情報が誤報だらけだったので陸上からの英艦隊の距離観測を信じたが、それも間違っていた為と言われる。
姉妹艦
1番艦:ザラ(重巡洋艦) 2番艦:フィウメ(重巡洋艦) 4番艦:ゴリツィア(重巡洋艦)
関連
ポーラ(艦隊これくしょん)、ポーラ(アズールレーン)・・・本艦をモチーフにした「艦隊これくしょん」「アズールレーン」のキャラクター。
オーストリア=ハンガリー帝国海軍:1867〜1918。ポーラ市に司令部を構えていた。