六部殺し
ろくぶごろし
日本の昔話(民話)のひとつ。
ある百姓が自宅に泊まった旅の六部を殺して金品を奪い、それを元手にして財を成したが、生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する物語。最後の子供のセリフから、「こんな晩」というタイトルのバージョンもある。
概要
六部殺しとは、日本の昔話のひとつである。
六部とは六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のこと。
物語
ある月夜の晩のある村の貧しい百姓の家に六部がやって来て一夜の宿を請う。その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。
ところが、ふとした事から六部が遊んで暮らせる程の大金を持っている事を持っている事を知った百姓は、大金に目がくらみ、六部を惨殺して死体を秘密裏に処分して大金を奪った。
その後、百姓は奪った大金を元手に何らかの商売を始めて一山当てて急速に裕福になり、夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。
そんなある年の奇しくも六部を惨殺した時と同じような月夜の晩、夜中に子供が目を覚まし、百姓は子を負ぶって夜道を歩いていると突然、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言ってあの六部の顔つきに変わり、百姓はあまりにもの恐怖に気を失い、そのまま死んでしまい、やがて一家は滅亡し、その屋敷跡地を見るたびに、村人は「六部殺し」の報いの物語を子や孫に聴かせるのであったという。
余談
- 「こんな晩」というタイトルのバージョンでは、話によっては殺されたのは六部ではなく修験者や托鉢僧や座頭や遍路、あるいは行商人や単なる旅人とされている場合や、殺して金品を奪ったのは泊めてくれた百姓ではなく同じ渡し船に乗った旅人か盗人、偶然旅の道連れとなった旅人か盗人とされている場合がある。
- 生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する方法は、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言う場合の他に鯉を料理して切ると血の海になり、それを見た子供が犯罪を暴露する場合がある。
- 似たような流れの怪談系の昔話に落語の演目を起源に持つ「もう半分」という話があり、江戸の町で酒売りの屋台を経営している男の所に行商の老人が来店し、1合の酒を一度に頼まず、まず「(一合枡に)半分だけお願いします」と5勺だけの酒を注文し、それを飲み終わると「もう半分」と言ってまた5勺を注文する、という変わった酒の飲み方をし、いつしか老人は男の屋台の常連客になったが、「勘定が安くなり、量を多く飲んだ気がする」という理由で変わった酒の飲み方を変えずにいたが、ある日、老人が屋台に財布を置き忘れたまま家路に着いてしまい、男が調べるとその財布の中には男の自分の店を持つという長年の夢を叶えられる程の大金が入っていて、大金に目がくらんだ男は財布をネコババし、間もなくして財布を忘れた事を思い出した老人が顔色を変えて泣きながら男の下にやって来たが、男は知らぬ存ぜぬの態度を貫き、老人はあの財布の金は娘を吉原に売ってやっとこしらえた生活費で、あれが無ければ自殺するしかない程生活が苦しくなってしまうと涙を流しつつ説明したが、男は「あっそ、じゃあ死ね」というような事を言って老人をつまみ出す様にして追い返し、老人はその日のうちに川で入水自殺を遂げてしまい、男は老人からネコババした金で念願の店を構え、商売繁盛してお嫁さんをもらい(話によっては元々屋台を夫婦で経営していた)、男の子が産まれるが、老人のように白髪で顔中がしわだらけの醜い赤ん坊で、(話によっては妻が気味悪がって世話をしたがらない、または妻が子供を産んですぐに亡くなった)乳母を雇っても翌日には青い顔で逃げ出すように辞めて行き、男はその訳を調べようと、夜中まで起きて赤ん坊の様子を見張ると、それまで寝ていた赤ん坊が急に起き上がり、辺りを見渡してから行灯の油をぺちゃぺちゃとうまそうに飲み干していて、男は叫びながら赤ん坊に駆け寄ると、赤ん坊は振り返って男に向かって茶碗を突き出す様な仕草(または手に持っていた茶碗か油皿を差し出す)をして「もう半分」と言って来た(話によってはそこで終わっている場合もあれば、上記の物語のように男はあまりにもの恐怖に気を失い、そのまま死んでしまい、やがて家は没落するという後日談が語られている)。