守備隊側の戦力
- (総兵力114514人)田所浩二少佐率いる第114師団514歩兵連隊、また占領されたヴァンホーテン島から撤退してきた、下北沢飛行第8戦隊10中隊の3機
上陸部隊戦力
- ビリー・ヘリントン中将を上陸作戦全権指揮官とした第36任務部隊4水陸両用軍団(海兵隊第3、6、4)
アメリカ軍の上陸
- 07月21日、9時31分、jr.シャム・ゲエム中将麾下の水上戦闘部隊、重巡洋艦コート、アクシード、バビロン、軽巡クボタイト、駆逐艦スローロリス、ヴォーの一斉砲撃により戦いの火蓋が切られる。守備隊側はすぐに沈黙したかに思われ、「If there are so many Marines to capture this small island, the victory will not be distorted」(この小さな島を攻略するのにこれだけの海兵隊がいれば勝利は歪みねぇな)と部下を鼓舞したというエピソードがあるほどで、上陸部隊は3日で陥落せしめると当初は予想しており、ビリー・ヘリントン中将は、第3海兵隊師団の上陸を開始させるが、しかしそれが田所少佐の狙いであった。
半地下式の頑強なトーチカに覆われた11か2くらいセンチ速射砲は健在であり、敵の上陸部隊を海岸ギリギリまで引きつけてからの奇襲砲撃による一転攻勢により、上陸部隊に莫大な被害を与え、実際3日間で進行した距離は200mも満たなく戦闘後の海岸は数えきれないほど死体が浮かび、海は真っ赤に染まっていたという。(イオンモウル海岸上陸戦、詳細は「帰還兵0人-イオンモウル上陸作戦」
それと同時に飛行隊も一斉に飛び立ち特攻を掛け、三浦少尉らの機は敵の揚陸艦ベンツ、センチュリーを大破させた。(バァン!と大きな音が島中に響いたという。)
戦闘の経過
- しかし、物量と火力に勝る敵軍をいつまでもは止められず、守備隊は分断され、島中央部への撤退を余儀なくさせられる。
そこでも田所少佐は玉砕禁止令を出し、徹底した遅滞戦術と散発的な夜襲と、硬軟織り交ぜた戦術で敵を翻弄していく。
田所少佐は要所要所では、十字砲火にもう一方向加えた三方からの砲火など、革新的な戦術を用い着実に敵に損害を与えていった。
(戦士した兵の手記にも「三方向(からの砲火)に一方向が敵うわけないだろう」などとあり、守備軍の士気の高さと戦術の完成性を見ることができる。)
中でも、撤退した風を装って、残された飲料用水に睡眠薬を仕込むなど、勝つために手段を択ばない様はまさに迫真であった。
センナン海岸夜襲
- また無線も傍受されていたが「ラーメン屋来タル」の暗号だけで島中に合図をし、一斉に夜襲を仕掛けた話は有名だ。
これは田所少佐は士官学校時代、毎夜毎夜、空手の稽古のあと近所のラーメン屋の屋台に通っており、その事を知る各陣地指揮官に伝わる夜襲の合図の暗号だった。
この夜襲で、守備隊側を完全に分断させ、勝った気になり油断していた上陸部隊指揮官M.セツ・バットマン准将は寝首をかかれ戦死する。
この夜襲は敵味方入り乱れての大乱戦となり、「誰が敵で誰が味方か、これもう分かんねぇな」と当時の通信兵の伝文にもなる程であった。
組織的抵抗の終結
- このように戦術を駆使し活躍をした田所浩二少佐であったが、やがてじわじわ味方も斃されていき、
8月10日、士官学校時代の後輩でもあり、彼の参謀官を務めていた遠野大尉に家族に宛てた手紙を託し、残存兵(負傷兵、看護部隊を除く)とともに玉砕。
その後負傷兵及び看護部隊は降伏し、かくして戦闘開始から454,5時間(約20日間)、守備兵8,100名、上陸部隊4,545名の犠牲を出したジュッセンパイヤー島の戦いは終結した。