ユーバーリンゲン空中衝突事故
ゆーばーりんげんくうちゅうしょうとつじこ
事故内容
発生日時 | 2002年7月1日 |
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発生場所 | ドイツ ユーバーリンゲン上空 |
第一機体所属 | バシキール航空 |
第二機体所属 | DHL |
犠牲者総計 | 71名(双方全滅) |
バシキール航空・バシキール航空2937便
機材 | Tu-154M |
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乗員 | 9名 |
乗客 | 60名 |
犠牲者数 | 69名(全滅)。しかも45名もの子供がいた |
KDHL・DHL611便
機材 | ボーイング757 |
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乗員 | 2名 |
乗客 | 0名(貨物機) |
犠牲者数 | 2名(全滅) |
楽しみだったはずの修学旅行
2001年6月。ロシアのウファで勉学にいそしむ学力・運動・芸術などの分野で優れた成績を持つ45人の中学生が褒賞としてスペインバルセロナのユネスコフェスティバルに招待されることになった。学生たちと付き添いの教師たちはユネスコのイベントとカタルーニャ地方のリゾート地での休暇を楽しみにしながら度に就く。
が、モスクワで本来乗るはずだった飛行機には旅行会社の手違いで乗りそびれ、学生たちの団体は2日後に手配されたバシキール航空の2937便に他の乗客とともに乗り込むことになった。
・・・それが自分達を待ち受ける残酷な死への旅とは露とも思わず・・・
貨物機と衝突
PM11時ぐらいにモスクワを離陸した2937便はバルセロナに向かう一方でDHL側の貨物機611便もバーレーンからベルギーのブリュッセルへ向けて飛び立った。両機はドイツ南部で航路が交錯していた。
それを管制するのはスイスのチューリッヒにある民間航空管制会社のスカイガイド社であったが夜に入り便数が少なくなったこともあって二人いた管制官のうちの一人が休憩に入ってしまい、後にはピーター・ニールセンだけが残され1メートルも離れた二つのレーダー画面を管理するワンオペを強いられる(片方が南ドイツ・片方が北スイス)。しかもその日は接近警報装置(コンフリクト・アラーム)や電話システムが機材点検の為機能しなくなっていた。
そんななか、領域に入った611便は空気の薄い上空で抵抗を減らそうと思い高度36,000フィートをリクエストし管制官は許可をしたのだが、実はこの高度は接近する2937便と同じ高度であり、両機に破滅の刻が迫っていた。
そうとは知らない管制官はアエロロイド1135便がフリードリヒスハーフェンへ遅れて着陸するという情報を得る。彼はハーフェン空港の航空管制官に誘導の引継ぎを頼もうとするが電話がつながらない為結局この機に5分間対応に回らざるを得なくなり、更にはタイ国際航空も捌く破目になり、2937便と611便の危機への対応が遅れることになる。
それを発見したのはドイツの管制官だったが、電話をしてもつながらない為ニールセンにその危機が伝わるのが遅れてしまう。
そうこうするうちに両機はTCASで異変を察知したが、此処でバシキール側に対応した(機体にTCASがあると知らなかった)ニールセンは2937便に降下を指示そして当機のTCASは上昇を指示するという食い違いが起こり、結局バシキール側は管制側に従った。だが、管制との連絡が取れなかったDHL側のTCASは降下(つまり双方ともにTCASに従っていれば衝突は避けられた)を指示して操縦士もそれに従う。
・・・その結果・・・DHL側の尾翼がバシキール側のキャビンを直撃。バシキール側はすぐにバラバラになり搭乗者が空に投げ出され、その後2分間は飛び続けたDHL側も力尽きた。双方の搭乗者たち全員の命が奪われたのは明らかであった。
バラバラになった残骸が地上に降り注いだコース次第ではもっと犠牲者が出ていてもおかしくなかったであろう。
それを目の当たりにした管制官(丁度現場に戻ってきた男も含む)は自分達の目の前で起こった惨事に愕然とし、ニールセンはその場で崩れ落ちてしまった。
事故原因~これは防げた事故だった!~
スイスのスカイガイド社は事故当初「管制官は勤務8年のベテランであり、バシキール側が管制の指示に従わなかった&当機にTCASが装備されていなかった」とバシキール側の落ち度説を展開したが、ロシア側は「バシキール航空は乗員装備共にしっかり管理していた。管理に落ち度があったのはスイスの管制側だ」と反論。
調査の結果スカイガイドの当夜の装備と勤務体制の不備が判明し、規約違反を犯していたスカイガイド側の落ち度が多いという結論となった。
一方でこの事故により、”過去に似た原因であやうく大惨事になるところだった事故があったにもかかわらずその教訓が生かせてなかった”ことが浮き彫りになる。
2001年1月31日に発生した日本航空機駿河湾上空ニアミス事故という双方とも日本航空の所属の航空機がニアミスして死者こそ出なかったものの百名のけが人を出したこの事故でも、那覇に向かっていた907便はTCASに従う一方で新東京国際空港に向かっていた958便は管制官の指示に従ったため高度がかちあう羽目になった。この時は昼間だったことでなんとか双方が相手を視認できたことで回避行動が間に合い、下手をしたら677人というテネリフェの悲劇を超えかねない史上最悪の航空事故になるところだった悲劇は回避された。
だが、日本の国土交通省が国際民間航空機関(ICAO)に対して同様の事故を防止するために調査を求めたにも関わらず、TCASと管制のいずれを優先すべきかの国際的基準がないまま1年半も案件が放置さていた。ロシア側の会社は管制官に従うように明記されていた一方でDHL側はTCASに従うという具合に曖昧だったために、教訓は活かされず悲劇が起こってしまったのである。
血塗られた後日談
さて、事故で家族を喪った遺族の一人にヴィタリー・カロエフという建築士がいた。その時はバルセロナに仕事に出ていたのだそうだが修学旅行の団体に同乗する形で2937便に搭乗していた妻と子供二人が家族が事故に巻き込まれ犠牲になってしまったのだ。取り残された彼は暫くの間家族の墓の前で虚脱した日々を送っていたが、ある日突然事故に関わった管制官だった男の顔を見たくなり、私立探偵を雇って名前を変えてたニールセンの居場所を突き止める。そして元管制官に出会いせめて謝罪をしてもらおうと詰め寄ったのだが相手はこれを拒否したらしく(彼の方は彼の方で事故に相当参っていたのであろうが・・・)激昂した父親は相手を刺殺してしまったのである。
男の家族が巻き込まれた事故が事故だけにスイスの裁判所もある程度配慮せざるを得なかったらしく、結局心神耗弱を認められ懲役8年を言い渡されたが、さらに刑期を短縮され2年ほどで出所を赦された。