イタリア史
いたりあし
古代には半島の北部にケルト人が居住し、南部にはギリシア系の植民が相次いだ。伝承では紀元前8世紀にローマが建国され、前3世紀にかけて半島全土を統一し、やがてローマ帝国へと発展していく。その後4世紀末の東西分裂と5世紀から始まる民族大移動の影響を受けて全土は荒廃し、ローマは教皇座があるだけの小都市となり果てていた。しかし地中海交易に出やすい位置と、元々ヨーロッパの中では豊かな農地を受けて徐々に回復し、さらに神聖ローマ皇帝の支配も衰えて多数の自治都市が成立した。
やがて12世紀までには北部平原やトスカーナに割拠する自治都市群、中部を占める教皇領、南部を統一するナポリ・シチリア王国(両シチリア王国)に分かれた。さらにその富をもとに16世紀にかけて様々な産業・文化・学芸が開花した。この時代をルネサンス期と呼び、今日のイタリア主要都市の外貌が整った(ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ジェノヴァ、ナポリなど)。この時期はトスカーナ語が標準イタリア語と定められ、「イタリア人」としての意識が生まれ始めた時代でもある。だが小国群故に諸国からの介入には弱く、18世紀までに北部の多くの地域がオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入り、南部のナポリ王国はスペインの王室が国王に入る形となる(アラゴン連合王国)。
1805年3月にナポレオン・ボナパルトを元首とするフランスの衛星国として、イタリア共和国からイタリア王国が北部に建てられる。ウィーン会議によってオーストリア帝国の影響下で旧体制が復活したが、ナショナリズムが高揚して北部のサヴォイア公国(後のサルデーニャ王国)が中心となる形で、1861年3月にイタリア半島のほぼ全域が統合された。この過程でナポレオン3世との密約が締結され、サヴォイアとニースがフランスに割譲された。
1918年11月の統一後に北部は工業・商業が発展するものの、南部は農村地帯が大半のままで近代化に取り残された。第一次世界大戦後はムッソリーニ率いるファシスト政権が台頭し、1939年9月の第二次世界大戦勃発後は枢軸国側として参戦したが、準備不足がたたってナチス・ドイツの軍事的支援に頼るようになる。1943年7月にベニート・ムッソリーニが失脚し、それに伴って一転して連合国側に転じてドイツと交戦する。
1946年6月に王室は追放され、現代のイタリア共和国が成立した。戦後は後に「奇跡的復興」と呼ばれる高度経済成長が実現したが、政治家の汚職・マフィアの台頭による政情不安が続いてテロ事件が多発した。