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嵯峨天皇の編集履歴2012/11/04 23:31:34 版
編集者:大東博士
編集内容:新規記事作成

御母は藤原乙牟漏

大同4年(西暦809年)、兄君の平城天皇の譲位を承けて即位される。

官制の改革や格式の整備など、律令政治の再編に意欲的に取り組み、政治的安定期をもたらされた。

文化面では、中国文化を積極的に摂取されたが、その文学的達成が勅撰三詩集である。

すなわち弘仁5年(西暦814年)、天皇の命を承けて編纂された『凌雲集』という漢詩集の出現は、貴族社会における漢詩文の制作を一段と活発化させ、『文華秀麗集』(弘仁9年)、『経国集』(天長4年)という勅撰詩(文)集を相次いで成立させることになる。

しかも、『凌雲集』と『文華秀麗集』では、撰者たちは作品の採否に迷ったときには最終的な判断を天皇に仰いでいる。

また、詩の実力者としても、三詩集を通して嵯峨天皇の御製は93首と最も多く収められ、嵯峨天皇は詩人としてもこの時代の代表的存在であられた。

弘仁14年(西暦823年)、皇弟の淳和天皇に位を譲り上皇となられるが、さらにその後を継がれた仁明天皇(嵯峨天皇皇子)の承和9年に崩御されるまで、政治的にも文学の世界においても大きな存在であり続けた。

また平安時代を代表する能書家でもあられ、「三筆」の御一方として知られる。

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