野沢秀行
のざわひでゆき
概要
サザンオールスターズのメンバー。ニックネームは毛ガニ。
サザンオールスターズの中ではメンバーの「潤滑油」のような役割も果たしており、桑田佳祐は「毛ガニがいなかったらサザンはとっくに解散している」と語っている。そういう点でもサザンオールスターズの長いキャリアを支える重要な人物である。
2008年、サザンオールスターズデビュー30周年記念ライブ『真夏の大感謝祭』。客席が一番盛り上がったのは、腰に抱えている持病により出られないと噂されていた、野沢毛ガニが「I AM YOUR SINGER」で登場、5人揃った瞬間だった。
1975年 - 1977年、南佳孝のバックバンド・「マーブルヘッド・メッセンジャー」に在籍。1977年に、大森隆志がアルバイトをしていたライブハウスに出入りする内に大森と面識ができる。同年、ヤマハ主催のバンドコンテスト『EastWest '77』にサザンの出場が決まった際、大森からの熱烈な勧誘があったが、野沢はセミプロであることを理由にあまり良い返事をしなかったという。
野沢が参加しないままサザンはコンテストに出場しベストボーカリスト賞を受賞。デビューが決まる頃、急にサザンのレコーディングスタジオにも顔を出すようになり、その急激な態度の変化に当初メンバーは難色を示したが、最終的には『パーカッションが入れば、リトル・フィートと同じ人数・バンド編成になる』という理由で容認し、デビュー直前のサザンに加入(実際は、原由子によると、自分が一番年上なので厳しくしないといけないと思っていただけらしい。『娘心にブルースを』より)。これらの経緯があり、1978年のデビューから30年経った現在でも「正規メンバーとしては認めていない準メンバー」、「デビュー直前にいつの間にかメンバーに入っていた」と度々ネタにされるなど、他の場面でも弄られる事が多い。また、一説によると野沢をメンバーにするか否かの『毛ガニ欠席裁判』が他のメンバー5人で行われたが、結論は出なかったという。
サザンオールスターズ名義の楽曲で唯一「FIVE ROCK SHOW」中にメインボーカルパートが存在する(ジャケットにそう記載されている)が、他にボーカル曲が存在せず(ライブではコーラスも担当している)、どれが野沢の声か特定はできない。また、サザンの中ではそのキャラクターを活かしてお笑い担当のような役割を果たしている。1982年の第33回NHK紅白歌合戦に出演した際は、後半楽器の伴奏をせず扇子を持って桑田とひしめき合うパフォーマンスを行った。
サザンのライブではギャグを担当するほか、重要なムードメーカーであり、「みんなのうた」ではデカい手の作りものを振り回し、「夕方 Hold On Me」ではタンバリンを投げ上げて見事にキャッチする。また、野沢が女装したり(82年「愛で金魚が救えるか!」)、他のメンバーと分かれて牛の格好をしていたり(96年「牛」)、「毛ガニは準メンバーだって悪い噂がある!」と自分から言ったり(99年「THE歌舞伎町LIVE」)など、とにかくそんなポジション。
愛称である毛ガニについては、『毛深いから』である。サザン名義の一部作品でも“野沢毛ガニ秀行”とクレジットされるほか、桑田のソロ作品に参加する際にはこの名義でクレジットされる。現在サザン名義の作品や公式サイトでは野沢秀行の名を用いる。
俳優としてドラマや映画に出演した経緯もある(『アトランタ・ブギ』他)。
1986年、原が産休のためサザンとしての活動を休止し、桑田佳祐と松田弘が「KUWATA BAND」を結成した際は、「J・E・F」というバンドを率いた。
毛ガニのホラ吹き
相当なホラ吹きで、桑田が1999年のカウントダウンライブ『晴れ着 DE ポン』での『死体置場でロマンスを』の中で「野沢毛ガニ、ホラを吹くな。嘘つきは大嫌いだ」と歌ったこともある。代表的なものとして、「ディープパープル日本公演のときあまりの音圧で蚊が潰されて、そのレリーフが日本武道館にある」「アマゾン川には体長1メートルにもなる巨大なセミがいる」(これはライブビデオ「ホタル・カリフォルニア」収録の「赤鼻のトナカイ」の歌詞にもされている)などがある。
その他、サザンオールスターズや桑田佳祐のPVでは何かしら脇役として出演している。桑田のソロシングル「波乗りジョニー」のPVにも出演し、CGで合成されたまさしく『毛ガニ』として出演した。桑田が監督をつとめた映画『稲村ジェーン』のエンディングにも、ほんの一瞬ではあるが野沢の姿を確認することができる。
花火好きであり、「BOHBO No.5」では、演奏者ではなく冒頭から主役の如く出演しており(最も曲中はほとんどこの曲のイメージキャラクター「BOHBOくん」としてだが)、最終的には花火となって空に打ち上げられている。このような出演に至った理由として、この作品が発売、レコーディングされた2005年は悪化した腰痛のリハビリのため音楽活動を休養しており、作品のレコーディングに満足に参加できていないためである。