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千葉胤富

ちばたねとみ

千葉胤富とは下総千葉家第27代目当主で昌胤の三男。当初は海上氏を継いでいたが、後に反北条を示す弟(甥)が家臣の手で始末されると千葉宗家を継いだ。千葉常胤以来の宗家の誇りを守り、外交にも手腕を振るった武将。(1527年-1579年)
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分家に入る

1527年、千葉家第24代目当主・千葉昌胤の三男として誕生。(ただし一部の書物やゲームでは次男である事が多い。)


兄に第25代目当主の利胤、臼井氏の養子となった千葉胤寿がいる。(一説では弟に第26代目当主となった親胤がいるが、親胤は兄・利胤の子という説もあるのでどちらが正解かは不明。)


1543年に元服し、この時に千葉家の分家の1つである海上氏を継ぎ以後数年間は海上氏の名跡を継いでいたが・・・。

宗家を継ぐ

1546年初頭、父の昌胤が51歳で死去すると家督は兄の利胤が継承。ところが、翌1547年に利胤は突如として32歳で世を去ってしまう。本来なら胤寿や胤富が家督を継承出来るはずだが、2人とも庶子であった為に家督を継ぐ事は出来なかった。


結局家督は末弟の民部丸が継承し、民部丸は1555年に元服して親胤と名乗って千葉家第26代目当主に就任した。しかし親胤は次第に親北条派の家臣である原胤清・胤貞親子の専横に怒り、遂には反北条方の足利晴氏を誼を通じて反旗を翻した。


これに対して北条氏康は親胤が準備を整えて北条領に攻め込むよりいち早くに千葉領へ侵攻。親胤は呆気なく敗北して捕縛された。


家中は「親胤が当主に復帰したとしても、結局はまた足利と誼を通じるかもしれない。それならば強制的に隠居させ、兄君の胤富に継がせれば・・・。」と考えて親胤を強制隠居させ、胤富を第27代目当主として仕立て、幽閉した親胤を暗殺する事に成功した。


こうして家臣団の手で擁立されて当主となった胤富は次の一手を決める様になっていく。

北条家との連携を強める

まず胤富は家臣の栗飯原入道を森山城に配置し、幕府の奉公衆にならって千葉一族や重臣などからなる森山衆を新設。


その他北条家との連携を強めており、1560年には長尾景虎足利義氏を攻めた際にはこれを救援する。しかし翌年には北条家と敵対する里見家の攻撃を受けて城を2つも失ってしまう。


また同年に長尾景虎が大軍を率いて関東侵攻を行った際に、彼もまた兄と同じく北条方に属して北条軍を救援するが、まもなく長尾軍と和睦して鶴岡八幡宮で行われた景虎の関東管領就任式に参列した。この時に小山高朝と諸将の首位の座を争ったが、景虎の仲裁によって胤富が首座となっている。


翌1562年には前年に里見家に奪われた城を奪還し、臼井城を奪還後に攻めてきた上杉軍を撃破した。以後は里見家との抗争が続き、1571年には小弓城で里見義弘と戦った。


胤富は後北条氏との関係を深めることで上杉謙信、結城家や里見家の侵攻を撃退。武田信玄や足利義氏に加えて佐竹軍も撃退。平安時代末期に活躍した千葉常胤以来の千葉宗家の誇りを守った勇将と讃えられた。


1579年に52歳で死去。家督は長男の良胤が継いでいたが、1570年前期に織田信長と誼を通じた事で家臣団から追放された為に次男・邦胤が継いだ。しかしその邦胤も1585年に叱責を逆恨みした側近に謀殺され、邦胤の子である重胤は幼年の為に家督を継ぐ事が出来ない状況となってしまう。そこに北条家に介入されて千葉家は北条家に合併される事となった。

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