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概要

江戸時代の1787年から1793年にかけて老中松平定信が行った幕政改革。江戸幕府が行なった享保の改革天保の改革と並ぶ改革である。


背景

寛政の改革の前代は、老中田沼意次による政治が展開した。

田沼時代は米以外の税収入を推し進めた。株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売、下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手するなど、田沼時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、金融からも利益を引き出すなどといった大胆な財政政策を試みた。


しかし田沼政治も末期を迎えると、その重商主義的な政策の矛盾がさまざまな分野で鋭く露呈した。領主財政の基盤である農村では、農業労働力の減少、荒地・手余り地の増加、農民闘争の激化等々により、本百姓体制は深刻な危機に見舞われた。天明期に相次いだ天災・飢饉も、農村の荒廃に一層の拍車をかけた。その結果、領主の年貢収入は激減し、幕府財政は極度に逼迫した。田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり、諸大名や庶民の反発を浴びた。また、幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判が起こった。また、個別領主経済の自立性をおびやかす田沼政策は、幕府と藩との対立をも惹起した。寛政の改革は、以上のような幕藩制社会の全構造的な危機の克服をめざすものとして要請された。


内容

寛政改革の農村政策は,まず天明の飢饉により荒廃した農村を復興し,本百姓体制を再建することであった。


具体的には,農業人口の回復増加と耕地面積の復旧拡大を目ざした。そのため,夫食(ぶじき),農具代の恩貸とその返済猶予令,他国への出稼ぎ制限令,江戸に流入した農民に対する旧里帰農奨励令などを発した。また飢饉対策として備荒貯穀を奨励し,村々に籾蔵を設置した。さらに〈荒地起返幷小児養育御手当御貸付金〉という名目の公金貸付けを実施している。これは諸国代官を通じて豪農層に利子1割前後で貸し付けられ,その年々の利金が耕地の復旧(荒地起返)や,農業人口の増加(小児養育)のための資金に活用された。このほか助郷村々助成手当とか用水普請助成手当などの名目の公金貸付けをさかんに行うなど,幕府は農政のなかに金融政策を積極的に導入した。この公金貸付政策の特色は,公金を借り幕府にその利金を年々納める豪農層の存在を前提にしている点である。このように寛政改革の農村政策は,推進の基盤を豪農層が担っていた。


 次に商業・金融政策であるが,米価をはじめとする諸物価の平準化をはかるため,米穀や貨幣の相場操作の実権を,商人の手から幕府の側に取り戻すことを改革の基本方針とした。


しかし相場を操作するためには,それ相当の資金を必要としたが,当時の幕府にそうした財政的余裕はなかった。そこで幕府は,江戸一流の豪商のなかから10名を選んで勘定所御用達に任命し,必要に応じて彼らの大きな資本とすぐれた商業手腕を利用することとした。事実,寛政改革の米価調節策は,この勘定所御用達と結託して推進された。1789年には低落した米価を引き上げるため,91年には高騰した米価を引き下げるため,それぞれ勘定所御用達に出金,買米を命じている。幕府は銭相場の引上げ策など貨幣政策についても,勘定所御用達に意見を徴しており,その財力のみならず,すぐれた商業知識にも依存することが多かった。また札差棄捐令により,118万両余にものぼる債権棄捐という大打撃をうけた札差を救済するため,幕府は猿屋町会所を設置し,この会所から札差に融資をすることとした。この会所資金の大半は,勘定所御用達の出資金によって賄われ,しかも貸付事務など会所の運営までもが,勘定所御用達に任された。


田沼政治の特色の一つは,商業資本との結託にあり,寛政改革は逆に商業資本を抑圧したというのが通説であった。しかし,実際には寛政改革も勘定所御用達=商業資本と密接に結託しており,寛政の改革の政策は田沼の経済政策路線を継承する面が多かった。


備荒貯蓄

  • 囲い米

大名に対して、石高1万石につき50石の割合で米を備蓄させた。米を備蓄する倉を社倉・義倉と呼んだ。

  • 七分積金

江戸の町の町入用を節約させ、その節約分の7割を積み立てて貧民の救済などにあてた。

治安対策

  • 人足寄場

刑期を終えた犯罪者や無宿人を収容し、労働を教え、社会復帰させるための施設を建設した。

  • 旧里帰農令

この頃の農村は多くの農民が田畑を捨てて、江戸に流入していたため、荒廃が進んでいた。定信はこうした農民に帰村を促し、農村の復興を図った。また、江戸に流入していた農民は無宿人となっていたため、江戸周辺地域の治安維持の目的もあった。

武士の救済

  • 棄捐令

旗本・御家人に対する借金を棒引きしたり利子を軽くしたりした。なお、『棄捐』とは『なかったことにする』という意味である。

文化・風俗の取り締まり

  • 寛政異学の禁

湯島聖堂の学問所における科目を儒学のなかで朱子学だけとした。

ただし、これはあくまで湯島聖堂内のみの処置であり湯島の外における学問の規制はしていない。

  • 林子平の処分

経世論家・林子平は『海国兵談』『三国通覧図説』を記し、幕府の外交の姿勢に対して警鐘を鳴らした。だがこのような幕府批判は禁止されていた為に処罰された。さらに言えば、この当時はロシアからの日本侵攻のデマが流れ、全国での暴動の危機が起こっていた時期であったため、これは火に油を注ぐ行為でありTPOを弁えてなかったと言える。


  • 社会の統制

定信は民間にも徹底して厳格な政治を行った。公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、幕府批判に対する出版統制により洒落本作者の山東京伝(代表作は『江戸生艶気樺焼』)、黄表紙作者の恋川春町(代表作は『金々先生栄華夢』)、版元の蔦屋重三郎(耕書堂の店主)などが処罰された。


結果

定信の政治は厳格なものであったが、少なくとも幕府財政は赤字から黒字に転じ、若干の備金さえ生じた。また石川島人足寄場や町会所、あるいは勘定所御用達の制度など、寛政の改革で創設されたもので幕末期まで存続したものもあり、決して失政とは言えないであろう。しかし、ロシアの使節・ラクスマンの来航に端を発する外交や沿岸防備の問題に重大な決意をもって臨んでいた最中、定信の政治生命に終止符を打つ事件が発生する。

『尊号一件』である。


光格天皇が父・閑院宮典仁親王に太上天皇の称号を贈ることの許可を得ようとしたが、定信がこれに反対したのである。『太上天皇』は先代の天皇に送られる諡号で、天皇に即位したことのない天皇の実父に『太上天皇』の諡号を与えた実例は存在しなかったのである。

一方、将軍家斉が実父一橋治済を江戸城西の丸に迎えて大御所と崇めようとしたが、これもほぼ同じ理屈で定信に拒否された。これにより、家斉・治済と定信は対立してしまった。贅沢好きな家斉からすれば、これまでの政策は耐え難いものであったが、財政難を克服するためなら、とある程度は政策を容認してきた。また、大奥の経費を3分の1に切り詰めたことも反感を買うきっかけとなっていた。

以上の事柄も定信失脚の一因となっているが、最大の原因は厳しい緊縮政治に士庶の不満が集中したためであった。



「白河の清きに魚もすみかねて元の濁りの田沼恋しき」



この狂歌が、寛政の改革に対する民衆の不満を如実に表していると言える。



しかし寛政改革を定信とともに推進してきた老中松平信明らは,定信解任後も幕閣にとどまっており,また松平定信も退任後も一定の影響力を保持していた。これら寛政の遺老により,文化末年ごろまで寛政改革路線は継承されている面が多い。


その後、寛政の遺老の時代が終わり田沼意次の路線を引き継ぐ水野忠成が老中になると再び賄賂時代を迎える。そして、その当時詠われた狂歌が以下である



「水野出て 元の田沼と なりにけり」



恋しき田沼と詠った時代に戻ったが実際に戻っても歓迎せず、むしろ民衆は今の賄賂政治を嫌い、再び皮肉る狂歌を詠った。

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