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督戦隊

とくせんたい

督戦隊は、戦線の後方に展開し、自軍兵士の敵前逃亡阻止等の任に就く部隊である。
目次 [非表示]

概要

 督戦隊は様々な国家の軍内部に設立され、すでに古代には、危機的な状況下において(死刑も含めた)懲罰を遂行すべく、特殊に訓練された軍人たちや特殊部隊において始まっていた。いくつかの別名には、次のようなものがある。「野戦警察(Полевая полиция)」、「憲兵隊(Жандармерия)」など。第二次世界大戦中のドイツも「野戦憲兵隊(Feldgendarmerie)」を編成した。

 きわめて有名なものとしては、労農赤軍におけるトロツキーの「阻止部隊」(督戦隊)、ソ連軍におけるNKVD部隊(国境警備隊、国内軍など)、中国軍の督戦隊(第19路軍、国府軍第36師212団督戦隊など)が挙げられる。それ以外には、ロシア内戦の時期に「闇商人」や「投機屋」との闘争を目的に武装された労働者義勇兵も、「阻止部隊」と呼ばれた。

 逃亡等が発生しやすい士気の低い兵士が存在する軍隊では必要となるものの、この任務のみを行う部隊は基本的にあまり例を見ない。

この部隊が活動する状況としては以下のとおりである。

  • 強制徴募により充当したり懲罰部隊など、士気の低い部隊
  • 傭兵異民族など、忠誠心が低く裏切りが予測される部隊
  • 負け戦が確定している戦闘など、状況が圧倒的不利な状態

などがあげられる。

過去

 近代以前では割とメジャーであったとされ、オスマン帝国絶対王政下のフランスなどで見られたというが、出典は不明。

 阻止部隊の歴史は非常に古く、歴史家V・A・アルタモーノフ(アルタモーノフ、ヴラジーミル・アレクセーエヴィチ)は、古代にはすでに騎兵による阻止部隊が存在していたと指摘している(В. А. Артамонов. Боевой дух Русской армии XV-XX вв. // Военно-историческая антропология. Ежегодник 2002. М., 2002. С.131.)。

 そういった兵は、すでに古代ギリシアの歴史家クセノフォンの時代には存在した。紀元前4世紀の彼の著作『キュロスの教育(Κύρου παιδεία)』において、歴史家は後方の横隊について書き記しており、それは以下のように機能したという。


σὺ δέ, ὃς τῶν ἐπὶ πᾶσιν ἄρχεις, τελευταίους ἔχων τοὺς ἄνδρας παράγγελλε τοῖς σαυτοῦ ἐφορᾶν τε ἑκάστῳ τοὺς καθ᾽ αὑτὸν καὶ τοῖς μὲν τὸ δέον ποιοῦσιν ἐπικελεύειν, τοῖς δὲ μαλακυνομένοις ἀπειλεῖν ἰσχυρῶς: ἢν δέ τις στρέφηται προδιδόναι θέλων, θανάτῳ ζημιοῦν. ἔργον γάρ ἐστι τοῖς μὲν πρωτοστάταις θαρρύνειν τοὺς ἑπομένους καὶ λόγῳ καὶ ἔργῳ: ὑμᾶς δὲ δεῖ τοὺς ἐπὶ πᾶσι τεταγμένους πλείω φόβον παρέχειν τοῖς κακοῖς τοῦ ἀπὸ τῶν πολεμίων.

 後衛隊を指揮するお前は最後尾の兵士たちを率いるのだから、お前自身の各兵士に自分の前方にいる兵士たちによく注意し、義務に真摯な兵士たちを励まし、投げやりな態度の兵士たちを厳しく脅し、裏切る意図で逃げる兵士がおれば死刑に処せと命じるのだ。というのは、後に従う兵士たちを言葉と行動で勇気づけるのは第一級の人物のする仕事であるが、後衛を受け持つお前たちは軟弱な兵士たちには敵が与えるより大きな恐怖を与えねばならないからだ。

(Ξενοφών, Κύρου Παιδεία/ΣΤ, 3:27)

(クセノフォン『キュロスの教育』第6巻第3章27節。訳文はクセノポン『キュロスの教育』松本仁助訳、京都大学学術出版会、2004年、283ページ)


εὖ δ᾽ ἴσθι, ἔφη, ὦ Γωβρύα, (ἵνα καὶ τοῦτ᾽ εἰδῇς,) οἱ πολλοὶ ἄνθρωποι, ὅταν μὲν θαρρῶσιν, ἀνυπόστατον τὸ φρόνημα παρέχονται: ὅταν δὲ δείσωσιν, ὅσῳ ἂν πλείους ὦσι, τοσούτῳ μείζω καὶ ἐκπεπληγμένον μᾶλλον τὸν φόβον κέκτηνται.

 ゴブリュアスよ、(次のことも知っておくとよいのだが)兵士が多数いる場合、彼らは勇気を持てば、抵抗しがたい気概を示すが、恐怖心を抱けば、多数であればあるほど、一層大きな、思慮を失わせる恐怖に襲われるのは、間違いないのだ。

(Ξενοφών, Κύρου Παιδεία/Ε, 2:33)

(クセノフォン『キュロスの教育』第5巻第2章33節。訳文は『キュロスの教育』211ページ)


 ここにクセノフォンは、後方横隊の第一義を明確化している。すなわち、集団パニックに陥っていない時、脱走兵を根本から阻止すること。


 第一次世界大戦中の東部戦線では、隊伍の秩序回復のため、ロシア軍の司令部には類似の懲罰手段に頼ることが要求された。最高総司令部の命令の以前には実現しなかったが、前線と軍の指揮官には、この指令に関して、非常に厳格な態度が存在した(指揮官命令――第2軍のV・V・スミルノフ〔スミルノーフ、ヴラジーミル・ヴァシーリエヴィチ〕将軍からの1914年12月19日、および第8軍のA・A・ブルシーロフ〔ブルシーロフ、アレクセーイ・アレクセーエヴィチ〕将軍による1915年7月5日の命令など)。1917年、軍の規律が解れ始めた時、ロシア軍の指揮官たちは、再び規律の回復を要求された。すなわち、この時期には、阻止機能も担当する「突撃強襲大隊(ударные штурмовые батальоны)」、「死の大隊(батальо́ны сме́рти)」が広範に配置されていた(Георгий Олтаржевский. Ни шагу назад! Первые заградотряды Первой мировой войны.)。


ロシア内戦期における督戦隊

食糧問題において

 ロシア内戦期においては、食料その他の備蓄の監視、闇商人や投機との闘争のため特別に編成された部隊が、「阻止部隊」(もしくはПост、「哨兵」)と呼ばれた。阻止部隊は鉄道の駅、波止場、道路のある各都市に現れた。阻止部隊の創設は、特に国の工業センターにおいて、混乱、飢餓など、危機的状況においてなされた。

 1918年1月14日(新暦では1月27日)、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国人民委員会議は、レーニンの署名した決議「食糧情勢の改善に関する手段について(О мерах по улучшению продовольственного положения)」を承認し、その中では「物品の流通、穀物の集積及び発送、同時に投機に対する無慈悲な闘争のための、もっとも革命的な前進手段」のため、武装部隊の設立が提起された。食料・地方組織によって設立された、それら部隊の基地には哨兵が配備され、阻止部隊の機能を果たした(Ленин В. И. ПСС. — Т. 35. — С. 314.)。

 阻止部隊の運用の実地は、公式には人民委員会議の決議「食糧問題に関する非常全権人民委員について(О чрезвычайных полномочиях народного комиссара по продовольствию)」(1918年5月9日)、「食糧徴発隊(Продотряд, продовольственный отряд)」の設立に関する全ロシア中央執行委員会の決議(1918年5月27日)の後、合法化された。

 明確な組織の不在と、緊迫化する危機的状況の中で統制を作り出すことの困難さから、阻止部隊の活動はしばしば権力の中央組織の立場に反する、恣意的な性格を帯びた。

 阻止部隊の活動に明確な秩序を持ち込んだのは、人民委員会議の規定「鉄道および水路上で活動している阻止機能を持つ食糧徴発諸部隊について(О заградитительных реквизиционных продовольственных отрядах, действующих на ж.-д. и водных путях)」(1918年8月4日)だった。それは食糧徴発部隊の鉄道および水道への設置の権利が、食糧問題人民委員及び県の食糧問題部局にのみ与えられることに合意するものだった。阻止部隊の指揮官は、食糧問題人民委員の機関の、全権委任状を確認する命令書を持ち合わせなければならない。阻止部隊は、すべての乗用および軍務車両(国立銀行と郵便車両のみ除外された)を点検することができた。特に非難を受けたのは、阻止部隊の活動が鉄道・水道の流通を妨げてはならないが、極端な場合のみ、蒸気船・列車を差し押さえることを許されたことだったが、その時間は1時間のみとされた。阻止部隊は、一人につき20フント(8キログラム前後)という、規定の運輸ノルマを超過した食糧を没収する権利を持った。濫用に対する闘争のため、阻止部隊指揮官は徴収した生産物に対し、固定価格で支払われる受領証を交付する義務を負った。阻止部隊は食糧徴発軍の部隊から補充され、阻止部隊の人員は通常は5人から15人の範囲に定められていた。

 1919年5月以降、食糧徴発軍の部隊と阻止部隊は共和国国内警備軍の組成に入り、1920年9月以降は共和国国内勤務軍の組成となった。1921年1月19日、国内勤務軍と阻止部隊は、陸海軍人民委員部へと譲渡された。

 1918年12月の時点では、食料人民委員部の部隊と、県の食糧委員会を除いて、食料人民委員は全阻止部隊の解体に関する提議を行った。だが、食糧問題人民委員を除く、全権力機関への督戦隊の設置と、食料品徴発の明確な禁止は、1920年7月29日になって、人民委員会議に採択された。阻止部隊はネップ(新経済政策)が採用された、1921年後半に解体された。

トロツキーの阻止部隊

 内戦中の前線での阻止部隊について、トロツキー自身が著書の中に直接的に記述している(Троцкий Л. Д. «Вокруг Октября», 1924)。

 レーニンはまた1919年10月13日、次の提案をトロツキーへ書き送った。


「我々はペトログラードの労働者をもう2万人ほど動員し、さらにこれに1万人くらいのブルジョワジー分子を加えて、彼らの背後に機関銃を据え、2、300人を銃殺して、ユヂェーニチに大規模な攻撃を加えるべきではないだろうか」


 退路を断って攻撃を行うアイディアは、すでにレーニン時代に存在していたといえる(横手慎二著『スターリン 「非道の独裁者」の実像』中公新書、2014年、116~117ページ)。


大祖国戦争

緒戦

 独ソ開戦後の1941年6月27日、ソ連国防人民委員部第三局は、戦時下におけるその機関の活動に関し、第35523指令を発布した。その中では、以下のことが特に見積もられた(Пыхалов И. Великая Оболганная война. — М.: Яуза, Эксмо, 2005. — 480 с.)。


 道路、鉄道の分岐点において、木々その他を切り払うため活動する統制・阻止諸部隊は、命令により、第三局の局員たちの、その組織構成への加入によって配備され、彼らは以下の課題を伴う:

а. 脱走兵たちの拘束

б. 前線に浸透したすべての疑わしい分子の拘束

в. 国防人民委員部第三局の機関員に(1日から2日間)行われ、後で管轄の被捕縛者と共に資料を発送する、予備調査


 1941年7月19日発のNKVD命令第00941号によって、師団・兵団の特別支隊に関する命令で独立狙撃兵小隊が、軍に関する命令で独立狙撃兵中隊、方面軍に関する命令で独立狙撃兵大隊が編成され、NKVD部隊の勤務員によって補充された(Пыхалов И. Великая Оболганная война. — М.: Яуза, Эксмо, 2005. — 480 с.)。


 脱走兵、臆病者、パニック扇動者との闘争について、北西戦線のNKVD特別支隊のための指令

 脱走兵、臆病者、パニック扇動者との闘争における師団、兵団、軍の特別支隊は、次の処置を遂行する

а. 独断で陣地を放棄した軍勤務者が潜入する、いかなる可能性も排除するため、軍の途上、難民の途上、その他の運行の路上への伏兵、哨兵、巡察兵の配置により、阻止の任務を組織化する。

б. 差し押さえた指揮官および赤軍兵士の全員を、戦場から逃走した脱走兵、臆病者、パニック扇動者の摘発のため精査する。

в. 暴き出されたすべての脱走兵はただちに逮捕され、軍事法廷へ引き渡すため審問が執り行われる。審問は、12時間の期限で完了するものとする。

г. 軍勤務者の持ち場に遅延したもの全員を小隊ごとに〔中隊ごとに〕編成し、検査済みの指揮官の指揮のもと、特別支隊の代表に伴われて、適応する師団の司令部へと発送する。

д. 特殊な例として、状況が前線の秩序の即時回復のための決定的な手段の採択を求める場合、特別支隊の指揮官には、脱走兵をその場で射殺する権利が認められる。そのような場合のすべてについて、特別支隊の指揮官は軍および前線の特別支隊へ報告する。

е. その場での軍事法廷の判決の執行、必要な場合は隊の前での執行。

ж. 取り押さえられた者、部隊へ振り分けられた者、それら全員の人数を調査し、また被逮捕者と有罪宣告を受けた者の個人調査を行う。

з. 毎日、軍の特別支隊および前線の特別支隊へ、被拘留者、被拘留者、有罪判決を受けた者の人数について報告し、また引き渡された数について、指揮官、赤軍兵士、および機材の部隊へ報告する。


 1941年7月28日発の、前線を通り抜けて来た敵のエージェント摘発を担当する阻止部隊の活動の強化についてのソ連NKVD特別支隊の訓示39212号はこうなっている(Пыхалов И. Великая Оболганная война. — М.: Яуза, Эксмо, 2005. — 480 с.)。


 第一線に接した地帯の前線を非組織的に離脱した、また、部隊単位もしくは個人で検挙された、すべての軍勤務者を例外なく精査すべく組織化された阻止部隊は、我々の元へ潜入させられたドイツの斥候エージェント摘発の重要な手段の一つである。

 しかし手元の資料が示しているのは、阻止部隊の活動がなお不十分に組織化されていることで、捕縛された顔ぶれの点検は、しばしば勤務員でなく軍人により、上辺だけ行われている。

 赤色陸軍内部の敵のエージェントの発見および容赦ない殲滅の目標において、〔私は〕提起する。

 第一。熟練した機関員の隊へ配置するために、阻止部隊の活動を増強する。例外なくすべての被逮捕者の尋問が機関員によってのみ行われねばならぬことを、原則として、制定する。

 第二。ドイツの捕虜から帰って来たすべての顔ぶれを、阻止部隊によって捕縛された者たち、また諜報およびその他の手段で摘発されたものたちも同様に逮捕し、捕虜になって逃走した、もしくは解放された状況について、容赦なく尋問する。

 もし審問によってドイツの偵察機関との関係についての情報が明らかにならなかった場合、それらの顔ぶれを警備から解放し、彼らに部局の機関員及びコミッサール部門の側からの特別な監視を設置したうえで、別の前線への任務につける。


 前線における隊、軍、師団の指揮官および南西方面軍司令官へ宛てた、スターリン及びシャーポシニコフ将軍の連名による、1941年9月12日付のスタフカ(司令部)指令第001919号はこうなっている。


 ドイツのファシズムとの闘争の経験は、我々の狙撃兵師団の中に、敵の側からの最初の圧迫で武器を放り出し、「我々は包囲された!」と叫び始め、残りの兵士も後に続かせるような、パニックに陥りやすい、また直接的に敵対的な分子が少なからず存在することを示している。これらの分子の同様の行動の結果、師団は敗走に向かい、機材を放棄し、個々人で森の中から姿を現してくる。こういった現象が、すべての前線に発生している。もしそれらの師団の指揮官、コミッサールがその任務の要請に応じていれば、パニック煽動・敵対的分子が優勢になることなどないだろう。しかし困ったことに、堅牢不屈の指揮官やコミッサールは我々にはそう多くはない。

 前線における、より高度に指定された、好ましからぬ現象を予防する目的において、最高総司令部は命令する。

 第一。あらゆる狙撃兵師団において、少なくとも大隊〔狙撃兵連隊1個中隊の計算で〕規模の、師団指揮官に属し、その指揮下に通常の火器武装の他にトラックやいくらかの戦車もしくは装甲車の類の運搬手段を有する、信用できる兵からなる阻止部隊を有すること。

 第二。阻止部隊の任務によって、師団における断固たる規律の維持と設立における、軍幹部への直接的な支援、パニックに罹った軍勤務者の逃走の阻止、パニックと敗走の首謀者への火器の使用を躊躇せず、パニックに囚われていないものの、全体的に敗走へ傾きかけている師団の誠実な戦闘分子への支援とすること。

 第三。師団の特殊部隊および政治部の勤務員に、師団の秩序と規律の強化における、師団および阻止部隊の指揮官への助力を義務づけること。

 第四。この命令を受け取った日から5日以内に、阻止部隊の編成を終わらせること。

 第五。前線及び軍の部隊指揮官に、受諾と実行について報告すること。


スターリングラードの戦い

 1942年7月28日発、有名なソ連国防人民委員I・V・スターリンの命令第227号(«Ни шагу назад»、「一歩も引くな」)が発布され、その中ではこう指示されていた( Пыхалов И. Великая Оболганная война. — М.: Яуза, Эксмо, 2005. — 480 с.)。


 第二。軍の軍事ソヴィエト、そして軍指揮官に向けて。

(中略)

б. 軍の内部に3~5個の装備の良好な阻止部隊〔各自200名の〕を形成すること、かれらを不安定な師団の直接的な背面に配置し、師団の一部によるパニックと無秩序な退却の場合には、パニック扇動者と腰抜けどもをその場で銃殺すること、そして、それによって尊敬すべき兵士が母国への義務を果たすことを支援すること。


 1942年10月15日の赤軍の状況では、193の阻止部隊が形成されていた。彼らのうちスターリングラード方面軍の特殊部隊には16が所属し、ドン方面軍には25個ほどが所属していた。1942年8月1日から10月1日までに、諸阻止部隊によって(Пыхалов И. Великая Оболганная война. — М.: Яуза, Эксмо, 2005. — 480 с.)、


 前線の第一線から逃亡した14万755名の軍勤務者が捕縛された。捕縛された数のうち、

 逮捕、3980人。

 銃殺、1189人。

 懲罰中隊への配属、2776人。

 懲罰大隊への配属、185人。

 自分の部局や転送地点への送還、13万1094人。

 ドン戦線においては、3万6109人が捕縛された。

 逮捕、736人。

 銃殺、433人。

 懲罰中隊への配属、1056人。

 懲罰大隊への配属、33人。

 自分の部局や転送地点への送還、3万2933人。

 スターリングラード戦線では、1万5649人が捕縛された。

 逮捕、244人。

 銃殺、278人。

 懲罰中隊への配属、218人。

 懲罰大隊への配属、42人。

 自分の部局や転送地点への送還、1万4833人。

(Справка ОО НКВД СТФ в УОО НКВД СССР о деятельности заградительных отрядов Сталинградского и Донского фронтов не ранее 15 октября 1942 года // Сталинградская эпопея. Материалы НКВД СССР и военной цензуры из Центрального архива ФСБ РФ. — М., 2000. — С. 230—232.)


運用の実際と結果

 ソ連邦英雄のP・N・ラーシェンコ将軍は言っている(Игорь Пыхалов. Правда о заградительных отрядов)。


 そう、阻止部隊は存在した。しかし、彼らのうちだれかが、少なくとも我々の戦線地区で自軍を撃っていたのか、私は知らない。すでに私はその計算のアルヒーフの記録を照会したが、そういった記録が見当たらなかった。阻止部隊は前線から遠方に置かれ、軍を背面で後方攪乱者や敵の挺進から守り、残念ながら存在していた、後方攪乱者を捕縛していた。渡河の際に秩序を保ち、自らの持ち場から撃退された兵士を集合地点へ送り出していた。

 言えるのは、前線は当然のことながら、言うなれば、戦争に出たことのない、不慣れな援軍を受け取っており、すでに銃弾に撃たれて堅固で勇敢な兵士から構成された阻止部隊は、信頼できる力強い肩だった。しばしば起こったのは、阻止部隊がドイツの戦車隊や自動小銃部隊と向かい合い、戦闘で多くの犠牲を出したことだ。これは反駁しがたい事実だ。


 1941年10月づけのソ連内務人民委員L・P・ベリヤ宛の、NKVD特別局次官で第3級国防人民委員ソロモーン・ミリシチェーインによる公式文書はこうなっている(Великая Отечественная. Отцы победили, нам завещали)。


 開戦から本年〔1941年〕の10月10日にかけて、NKDV特別局とNKVD部隊の阻止部隊による警備で65万7364人の、持ち場に遅延した、また前線に急いでいる軍勤務者が逮捕された。捕縛されたもののうち、2万5878人が逮捕され、残りの63万2486人は編成され、再び前線へ配属された。

 逮捕されたもののうち、

 スパイ、1505人。

 後方攪乱者、308人。

 反逆者、2621人。

 臆病者及びパニック扇動者、2643人。

 煽動的な風聞を伝播したもの、3987人。

 その他、4371人。

 全部で2万5878人。

 特殊局の決定と軍法会議の判決により、1万201人が射殺された。彼らのうち、隊の前で射殺されたのは3321人。


 捕虜になるか敵に包囲された赤軍勤務者の精査のため、1941年12月27日発の国防委員会の決定第1069号によって、すべての軍に報告・留置所、そしてNKVDの特殊ラーゲリが設置された。1941年から1942年には、27の特殊ラーゲリが創設されたが、審査や検査済みの軍勤務者の前線への発送の関係から、それらは段階的に閉鎖された(1943年の最初には、全部で7つの特殊ラーゲリが運営されていた)。公式の情報によると、1942年には特殊ラーゲリに17万7081人の軍勤務者および包囲された人々が入れられていた。審査の後、NKVD特別支隊によって赤軍へ15万521名が引き渡された。

1944年10月29日、前線における状況の重要な変化の関係で、国防人民委員I・V・スターリンの第349命令によって阻止部隊は解体された。直接勤務していた者たちは狙撃兵部隊へと補充された(ПРИКАЗ О РАСФОРМИРОВАНИИ ОТДЕЛЬНЫХ ЗАГРАДИТЕЛЬНЫХ ОТРЯДОВ № 0349 29 октября 1944 г.)。


国の例

ナチスの軍隊においても第二次世界大戦末期にこの状況が見られた。


ウクライナ侵攻

公表はされていないが、ウクライナ侵攻のロシア軍にも督戦隊がいるという。開戦当初からロシア軍は士気が低く、イギリス国防省の分析でも督戦隊の存在が指摘されている。身内からも、撤退しようとすると味方から撃たれるという窮状を訴える動画が投稿されているほか、ウクライナ軍の公表したドローンの映像にも、味方に銃を向けられているロシア兵の姿が捉えられている。イギリス国防省は、「ロシア軍の質や士気の低さ、規律の不十分さを証明するもの」との見解を示している。

督戦隊となっているのは緊急対応特殊科およびロシア国家親衛隊のほか、非ロシア正規軍で、チェチェン共和国の首長ラムザン・カディロフの私兵「カディロフツィ」。


21世紀にもなって相変わらずこんなことをしているとは、おそロシア

関連項目

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