概要
ブラウザゲーム「刀剣乱舞」において織田信長を元主と言及する宗三左文字・へし切長谷部・不動行光・薬研藤四郎・実休光忠らが描かれた作品につけられるタグ。
2015年1月のサービス開始時は、宗三左文字・へし切長谷部の二振が元主である信長に言及し、それぞれ複雑な思いを抱いていることを窺わせた。この二振りの紋は織田家紋である木瓜紋を取り入れたデザインとなっている。
初期実装の回想其の7『今川の剣』では宗三左文字が桶狭間の戦いにおいて織田信長の手に渡った事への心境を語っている。
2016年2月不動行光が織田信長の愛刀として実装され、内番手合わせの特殊台詞にて宗三左文字とへし切長谷部の他に薬研藤四郎が信長所有であることが示唆された。
この時実装された其の25『悲しみと、なぐさめ』では、本能寺の変においてのへし切長谷部・不動行光のそれぞれの織田信長への想いを垣間見ることができる。
2016年5月に舞台「『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺」が公演された。
12振の刀剣中、宗三左文字・へし切長谷部・不動行光・薬研藤四郎の4振りの織田の刀が織田信長や本能寺の変を巡る物語のシーンの中心として描かれた。
この舞台の報道記事や演者のブログ・Twitterなどではこの4振りを指して「織田組」という呼称が使用された。
2016年10月からのアニメ刀剣乱舞-花丸-では第2話にて宗三左文字・へし切長谷部・薬研藤四郎の三振りが本能寺の変に出陣し、三振りのED曲「心魂の在処」を歌唱した。
2016年10月4日アップデートにより薬研藤四郎の極が実装された。修行中に彼が元の主織田信長について語る手紙を読むことができる。
2016年12月15日から2017年1月17日まで舞台「『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺」が再演された。
2017年5月9日アップデートにより不動行光の極が実装され、修行では織田信長の縁の地へと旅立った。極後、宗三左文字・へし切長谷部・薬研藤四郎との以前とは異なる手合わせ特殊台詞が追加された。
2017年8月8日アップデートの「審神者長期留守後御迎」ボイス追加により、宗三左文字からへし切長谷部・不動行光に言及する台詞が追加された。
2017年10月31日アップデートで宗三左文字とへし切長谷部の極が実装され、修行では織田信長の縁の地へと旅立った。
2023年6月20日アップデートで実休光忠が実装された。
二次創作では、一説に信長が所有したとされる刀や、家臣のものとされる刀剣も含めて「織田組」とすることもある。原作中の設定以外で織田信長が生前所有したとされる刀・家臣のものとされる刀の数が多く、今後も関連する来歴の刀剣が実装または判明する事が予想されるグループタグである。
実際現時点で織田家家臣である明智光秀の所持刀剣とされる亀甲貞宗、倶利伽羅江、地蔵行平と森長可の所有槍である人間無骨が織田組のカテゴリに入っている場合も存在する。
(ただし亀甲貞宗は所有説が媒体によってまちまちであり、倶利伽羅江は劇場版オリジナル刀剣男士でゲームには未登場)
タグ付けに際する注意
このタグは腐向けタグではない一般向け作品にも使用されている。腐向けの場合は本タグの使用を控えること。
構成メンバー
現在(2023年6月)確認されているのは、以下の5名。
織田信長関連以外の詳細は各刀剣男士のページへ。
No.81 宗三左文字:打刀
物憂げで厭世的な美青年。自虐と皮肉を交えた台詞が多い。
数々の天下人の元を渡り天下取りの刀と呼ばれるが、刀剣として使われずに居た境遇を、籠の鳥と一緒だと言い自嘲している。
歴代の主の中で織田信長のみを名前ではなく「魔王」と呼ぶ。信長が戦勝の記念に入れた刻印が左胸元に蝶と髑髏をモチーフとした刺青のようなもので再現されており、中に「第六天魔王」と記されている。信長が刻印を入れてから今の自分があると言い、刻印が主達を狂わせ執着させたとしている。
他の織田組に対しては、「審神者長期留守後御迎」ボイスでは、へし切長谷部の事を「へし切」、不動行光の事を「不動行光」と呼び、2振りを忠犬じみていると評している。
ちなみに花丸と舞台ではへし切長谷部への呼称は「長谷部」だったが、メディア媒体での違いなのかシチュエーションの違いなのかは不明。
兄の江雪左文字を部隊に入れて戦国の記憶 桶狭間ステージに出陣すると桶狭間で今川から信長の手へ渡ったことに対する想いを語る回想を見ることができる。(回想其の7)
【織田に関するエピソード】
信長が自らの名前と歴史を刻んだ終生の愛刀。
信長が永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで義元に快勝した際分捕った左文字の太刀。
この戦いで織田家存亡の危機を脱した信長はよほどうれしかったのかこの刀を磨上げ、茎に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」と名を切らせている。
この事について『信長公記』にはこう記されている。
『今度分捕に、義元不断さされたる秘蔵の名誉の左文字の刀召し上げられ、何々度もきらせられ、信長不断さされ候なり。』
何度も試し切りをさせたところ切れ味が良かったので常から腰に差してしまうほど信長のお気に入りになってしまったと言う事らしい。
信長が桶狭間の戦いに向け参拝した熱田神宮で戦勝祈願のために空高く投げた永楽通宝がすべて上を向いたという。それを吉兆とした信長は織田軍旗にも使用されている永楽通宝を紋様とした鉄鍔を宗三左文字のために作らせた。
この逸話と、信長が宗三左文字を愛刀としてから戦に連戦連勝した事を受け「まけずの鍔」と呼ばれるこの鉄鍔は、現在も重要文化財として安土城跡総見寺に所蔵されている。
この鉄鍔の永楽通宝の紋様はアニメ「刀剣乱舞-花丸-」第2話エンディング映像で宗三左文字の鍔の紋様としても使用された。
天正十年六月二日(1582年6月21日)、信長の最期となる本能寺の変まで手元に置かれたとされる。
その後については
1)炎に巻かれ焼け跡から秀吉が見つけ所蔵した説
2)枕席に侍っていた神官の娘が持って逃げ出し後に秀吉に献上した説
などがあるが、刀剣乱舞の宗三左文字は本能寺で一度焼けた説が採用されており
明暦の大火と合わせ2度の火災の影響を受けていることが作中の台詞からも窺える。
明治13(1880)年に徳川家より奉納され、現在信長を主祭神とする建勲神社所有となっている。
宗三左文字 極
2017年10月31日に極が実装。修行の旅では、信長の居城がある安土に行き着く。
強くなるためにには信長を乗り越える必要があると考えるが、その存在感の大きさから乗り越えられはしなかった。しかし、審神者の刀であり続ければいつかは変われるかもしれない、と希望を抱いて帰還する。
自分の意識を変えた審神者のことを信長のようだと言って高く評価し、過去の主とは異なる存在としても認めている。
真剣必殺では自身を魔王の刀であると自称した上で、それに手を出した事を咎とし、敵に死をもって償わせようとするようになった。まるで粗相をした茶坊主を手打ちにした誰かのようである。
また、連れている揚羽蝶は織田家の家紋の一つでもある。
No.118 へし切長谷部:打刀
勝ち気で皮肉屋な青年。
主への忠誠が厚く、その一番であることを渇望しているが口にすることはない。
作中では信長を「織田信長」「前の主」「そういう男」といった表現で呼び、へし切と言う名前で呼ばれる事を避けるように言う等、話題にはするが信長から距離を置こうとする台詞が多く見られる。
反面、今の主である審神者への忠誠心は厚く、使命を果たす事を絶対としている。
他の織田組に対しては、回想では不動行光の事を「お前」と呼ぶ。
不動行光を部隊に入れて織豊の記憶 本能寺ステージへ出陣すると、2振りの織田信長に対する回想を見ることができる。(回想其の25)
回想では不動行光が刀剣破壊で口にする信長が好んだ敦盛になぞらえて諸行無常を説いている。
【織田に関するエピソード】
その名から信長の苛烈な性格を伝える愛刀の一振り。
『享保名物牒』という書物に
『信長が無礼を働いた観内という茶坊主を、隠れるため潜り込んだ膳棚ごと圧し切ってしまった』
という名付けの由来とすさまじい切れ味を示す逸話が残っている。
同様の逸話が記されている『黒田家御重宝故実』に棚を切ったという記述はない。
刀剣乱舞のへし切長谷部は刀帳の台詞から棚ごと圧し斬った説を採用していることが分かる。
天正三(1575)年、信長が中国征伐の献策を賞し播磨衆の家臣黒田孝高(如水)に下賜したとされる。
織田信長が所持していた当時は長谷部国重作と判明しておらず、号は「へし切」の部分のみであり、「圧切御刀」と呼ばれていた。
打刀に磨上られたのは黒田家に渡った後、信長所有時は大太刀または太刀であったとされる。
へし切長谷部 極
2017年10月31日に極が実装。修行では、信長の居城がある安土に向かわされた。
信長が黒田官兵衛(黒田如水)にへし切長谷部を下賜した理由を改めて知り、納得する。
過去を清算し、今後は今の主である審神者のことだけを考えて生きていくと宣言。
強い信頼を寄せる審神者のことは、信長とは大違いと言い、自慢の主だと評する。審神者を高く評価する点は同じだが、宗三とは逆のことを言うのが面白いところ。
修行を経た自信から、もしくは審神者への信頼からか、極める前は話題にすることが多かった信長への言及はほぼなくなった。
No.120 不動行光:短刀
2016年2月実装。
自身が織田信長公がたいそう愛した逸品である事を誇りにしている。光秀や火に囲まれることなど本能寺の変に対する言及が多く、主を救えなかった事を悔やみ「ダメ刀」を自称している。作中では織田信長の事を「信長公」や「信長様」(回想時のみ)と呼ぶ。
紋のデザインは蘭丸に拝領された事を反映してか上記2振が織田木瓜紋を取り入れているのに対し森家の鶴紋を取り入れたものとなっている。
他の織田組に対しては、回想や手合わせでは宗三左文字を「宗三」、へし切長谷部・薬研藤四郎のことを「お前」と呼ぶ。
へし切長谷部を部隊に入れて織豊の記憶 本能寺ステージへ出陣すると、2振りの織田信長に対する回想を見ることができる。(回想其の25)
回想では自身が刀剣破壊で口にする信長が好んだ敦盛になぞらえた台詞で諸行無常を説かれることによってへし切長谷部の意を汲んでいる。
【織田に関するエピソード】
信長が小姓の森蘭丸に下賜した自慢の愛刀。
信長は酔って気分が良くなると膝を叩いて「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌ったという。
五郎左とは信長の重臣 丹羽長秀のこと、つくも髪とは永禄11(1568)年に松永久秀が献上した茶器「九十九髪茄子」の事であり、この逸話はこの時期かこの時より後のものとなる。
このエピソードは信長が所有した太刀「不動国行」と混同されており、どちらの逸話であるか正確なところは不明である。
刀剣乱舞では、公式ツイッターや本丸の台詞から不動行光のエピソードとして扱われていることがわかる。
天正5(1577)年5月頃より小姓として織田信長に召し抱えられた森蘭丸に、その後拝領される。
不動行光には森蘭丸拝領に関しての逸話がある。
信長の厠を待っていた小姓の森蘭丸は、待つ間に預かっていた信長の腰刀である不動行光の黒漆の刻み鞘の目の数を数えていたという。ある時信長は、戯れに集めた自分の小姓達に「不動行光の鞘の刻み目の数を当ててみよ。当てられたものには褒美にこの刀をやろう」と言った。小姓達は思い思いに数を言ったがなかなか当たらない。ところが当の蘭丸だけが数を言おうとしないので、信長は不思議に思い「なぜお前は言わないのか」と問うた。すると蘭丸は、自分が刻み目の数を数えて知っていることと、それ故に答えるのは不公平なので黙っていたことを告げた。
信長はその正直さに感心し不動行光を与えたのだという。
本能寺の変にて蘭丸と共に焼けたと伝わる。
その後再刃され小笠原家に伝わり現在個人蔵。
不動行光 極
2017年5月9日に極が実装。修行では、織田信長の居城である安土城へと旅立った。
自身が織田信長公がたいそう愛した逸品であるという認識に変わりはないが、酒を抜き、信長や蘭丸を失った過去を繰り返さないため、現在の主である審神者の元で働くことを決意する。
織田組との手合わせでは、薬研藤四郎に対しては手加減なしで張り合う様子があり、宗三左文字に対しては気安く接しながら気遣いをしており、へし切長谷部に対しては彼の好戦的なところを好みつつ審神者の一番を他の刀剣男士に譲らない心の内を見透かして自分も負けないとライバル宣言している。
極の刀剣破壊ボイスでは信長と蘭丸に想いを馳せている。ここでは「信長様」「蘭丸」と呼ぶ。
No.49 薬研藤四郎:短刀
気風が良い性格の少年。
兄弟に気を配ったり、主である審神者を守ろうとする気概がある。
以前まで極める前に織田信長や他の元主への言及はなかったが、2023年6月の実休光忠実装により追加された回想で初めて言及した。
【織田に関するエピソード】
松永久秀より献上された信長の愛刀の一振り。
『信長公記』元亀四(1573)年の項に名前を見ることができる。
『正月八日、松永弾正、濃洲岐阜へ罷り下り、天下無双の名物、不動国行進上候て、
御礼申し上げらる。以前も、代に隠れなき薬研藤四郎進上なり。』
「以前も」とあることから信長公記によれば松永久秀(弾正)が薬研藤四郎を進上したのはこの時期よりも前ということになる。しかし『享保名物牒』には元亀四(1573)年に献上されたとする記載がある。
上記より正確な時期は不明であるが、松永久秀が信長に仕えはじめ九十九髪茄子を進上したのは永禄十一(1568)年であるため、薬研藤四郎が信長の元へ渡ったのは1568~1573年の間であると予想される。
本能寺の変にて焼失したとされる(『享保名物牒』)が、諸説あり定かではない。
異説では、その後豊臣秀吉の手に渡ったとも、更に徳川将軍家に伝えられたともある。
薬研藤四郎 極
2016年10月4日に極が実装。修行先では安土の織田信長の元へ赴いており、手紙では信長についてどう思っているのか初めて言及する。
織田信長のことは、手紙の中で「織田信長さん」「信長さん」「織田信長」と呼ぶ。
審神者を守り支え、末永く共に歩もうとする意志が台詞から窺える。過去の主のことは「俺の主は、惜しいと思ういいやつばかりだったよ」と言及するようになった。
No.220 実休光忠:太刀
2023年6月実装。
薬研藤四郎と一緒に「織豊の記憶:安土」に出陣すると回想其の132「毒と薬」が、宗三左文字と「織豊の記憶:本能寺」へ出陣すると回想其の133「仇も巡れば他生の縁」がそれぞれ発生する。
【織田に関するエピソード】
永禄五(1562)年久米田の戦いで戦死した三好実休から畠山高政が分捕り、信長に献上した光忠の太刀。
信長は華やかな光忠の作を愛しており、この実休光忠を含め32口を蒐集していた。
『天王寺屋会記』によると、天正八(1580)年に信長が安土城にて開いた茶会にて二十五腰の光忠が披露され、堺一の目利きと名高い木津屋にどれが実休光忠かを当てさせたところ見事的中したという。何故分かったのか理由を尋ねると、木津屋は「(実休光忠は)三好実休が最期の時、敵の脛当を切り払ったために切先に少し刃こぼれができたと聞いた」と答えた。これを聞いて信長は大いに喜び、実休光忠を生涯の差料としたという。
天正十(1582)年、本能寺の変で信長が最期にこの実休光忠を振るい、奮戦したため十八ヵ所もの切り込み傷が付いたとされる。
その後は焼身で発見され、秀吉が信長の形見として焼き直したが、大阪の陣で再び炎に包まれ焼失したという。異説では大坂の陣の後、焼身で家康に献上されたとも言われる。
関連刀剣
ゲーム作中、信長や織田との関係性に言及のない刀剣
来歴上信長と接点がある刀剣
No.75 大般若長光:織田信長が所有し、元亀元年(1570)の姉川の戦いの功績で徳川家康に贈る。元亀4年(1576)織田・徳川連合軍と武田軍の戦いである長篠の戦いの際、長篠篠籠城の功により家康から奥平信昌(定昌)へ与えられた。
No.130 鶴丸国永:織田信長が所有し、御牧勘兵衛景則に与えたとされる。アニメ「刀剣乱舞-花丸-」の第2話では織田信長に所持されていた時期があったことに触れている。
家臣所持
No.19 にっかり青江:信長の重臣である柴田勝家が所有し、息子に伝えている。
信長との接点が不明な刀剣
No.27 鯰尾藤四郎:家臣北畠(織田)信雄が所持。信雄は信長の次男でもある。
No.53 大包平:大包平を見出した池田輝政は信長の家臣・近習であったことがある。
No.73 燭台切光忠・No.204 福島光忠:どちらも号を得る以前の来歴は不明。信長は25口以上とも言われる数の光忠を集めていた。
No.83 小夜左文字・No.89 歌仙兼定:家臣細川藤孝(幽斎)、及び細川忠興が所持、命名。
No.136 日本号:信長が所持した説、していない説の両方が存在する。作中の回想にて信長を「右府様」と呼ぶ。