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概要

史実

春秋戦国時代末期のの将軍。蒙武の父で、蒙恬蒙毅の祖父でもある。国の出身。

紀元前249年(荘襄王元年)、を伐って成皋と滎陽を取る。

紀元前248年(荘襄王2年)、の高都と汲を攻めた。また、の楡次・新城・狼孟とを攻めて37城を得る。

紀元前247年(荘襄王3年)、魏の信陵君が五ヶ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを王齕と迎え撃ったが敗れ、秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解いて去ってしまった。

紀元前246年(始皇帝元年)、晋陽で反乱が起こり、これを平定した。

紀元前244年(始皇帝3年)、韓を攻めて13城を取る。

紀元前242年(始皇帝5年)、魏を攻めて酸棗(現・河南省)など20城を奪い平定し、はじめて東郡を置いた。

紀元前240年(始皇帝7年)、死没。


キングダム

CV:伊藤和晃


城取り名人「白老」の名で列国に知れ渡っている秦国の大将軍。サンタクロースのような顔立ちで「フォッフォッ」と笑う優しそうなおじいちゃんだが、その体躯は息子である蒙武に並ぶほどの大男。

も「ガキの頃から名を聞いていた蒙驁大将軍」と言うなど、その名は知れ渡っていたようである。


蒙武の父で、蒙恬蒙毅の祖父にあたる人物である。

国出身であったが、趙の三大天の一人・廉頗に勝てず、故郷での出世の道を諦めて息子とともに秦へやってきた。


自他共に認める「凡将」であり、特筆するような能力は持ち合わせていないが、弱い相手との戦は絶対に取りこぼす事がない。また、人を見る目が卓越しており、組織運営に長けている。大らかで優しい性分故に部下からも人気がある。残酷な元夜盗桓騎や危険な野心家王翦といった”問題児”も難なく従わせている。


武将としては冒険を好まず無難なやり方を積み重ねる”凡人”だが、とてつもなく大柄な肉体から繰り出される一撃は凄まじく、武人としては剛力無双の勇士である。

何かに行き詰まった時は一兵卒に扮して陣営内を徘徊する癖がある。


魏の要所・山陽に総大将として侵攻したが、そこに魏に亡命した廉頗が立ち塞がってしまう。廉頗の登場に弱腰になり、一兵卒に扮して徘徊していた時にと出会う。その際、自分の状況を例えにして相談していると、信から「この期に及んで一発逆転の機会がやって来た」「次勝って勝ち逃げしてやれ」という言葉を受けて弱腰を払拭して奮起し、廉頗を打倒すべく立ち向かう。この出来事で信を一目置き、彼を独断で臨時の千人将に昇格させ、厳しい条件と引き換えに千人将の昇格を約束した。

戦いの終盤、廉頗が本陣が布陣する丘の裏側に現れ、対廉頗用の策を披露し廉頗からも「よく出来ている」と称賛されていたが、次々と突破されて本陣まで辿り着かれる。彼と一騎打ちをし、持ち前の怪力と積年の想いで善戦するが、左腕を斬られる重傷を負う。しかし、敵本陣を桓騎が先に落とし、すでに戦いが詰んだと悟った廉頗から和睦を申し込まれ、これを承諾したことで秦軍の勝利が確定し、長年の雪辱を果たした。


戦後は左腕を失ったことで引退を決めたが、合従軍の侵攻により再び戦場に復帰し、函谷関の守将を任される。


合従軍との戦い後、病により容態が悪く危篤状態に陥ってしまう。信や蒙恬が駆けつけた時には昏睡状態であったが直後に目を覚まし、信と蒙恬に六大将軍に抱いていた嫉妬尊敬を吐露した後、二人に「(王賁を加えた)三人で一緒に高みへ登れ」と言い遺して息を引き取った。


関連タグ

秦朝 蒙武 蒙恬 蒙毅

キングダム 廉頗





































ネタバレ注意




































肥下の戦いによる桓騎の死後、飛信隊・楽華隊・桓騎軍の残党が咸陽への帰途に着く中、桓騎のスカウトの経緯が語られた。

当時の蒙驁は連戦連敗続きだったため野盗の討伐(所謂、左遷)を命じられていたらしく、桓騎一家と対峙するもやはり敗北し、縄についてしまった。

蒙驁があまりにも弱すぎたため、蒙驁を殺した所で盛り上がらないからと桓騎も持て余していたが、蒙驁は殺される寸前の状況の最中で桓騎の目を見て彼の内情を見透かした上で、桓騎へ「今日は"運命の日"だ」と言って、「自分の力と思いをぶつけるためにもっと広い世界で戦ってみないか」と言い、「そのためには"力"が必要だから」と、桓騎に野盗を辞めて自分の元に来いと言い、いきなり副将にするという好条件を出した上で桓騎に提案した。

桓騎はこの提案にあっさりと乗り蒙驁の副将となった訳だが、桓騎一家をまとめあげ偲央を喪った復讐を終えた後の桓騎は、この頃から自分の「怒り」を世界に対してぶつけたいから戦場に出ようかと考えていたようで、奇しくも戦が弱すぎて話にならない一方で桓騎の強さ(蒙驁は桓騎に対し「戦の頭脳はそこらの軍師の遥か上を行く程の強さ」と見ていた)に一目置いていた蒙驁とは利害が一致していたのである。

もっとも桓騎一家にとっては野盗団からいきなり軍になるという急な鞍替えだったため、大変な騒動になっていたらしいが。なお、提案を承諾した後、自力で縛っていた縄を引きちぎって桓騎一家を唖然とさせた。その時に自身をじーさんでは無く「白老」と呼んで敬えと桓騎に言ってそれを了承したので、桓騎は蒙驁を「白老」と呼ぶようになった。


この話を桓騎の戦死後に摩論から聞いた信や蒙恬は、会話一つで野盗団を辞めて一家と引き連れて軍になったことに驚きを露わにしており、蒙驁の孫の蒙恬は蒙驁が桓騎を配下にした経緯に関しては詳しくは知っておらず、『連戦連敗であったので罰として野盗狩りの仕事に飛ばされて、そこで桓騎一家を制圧して配下にした』と聞かされていた。


ちなみに蒙驁が連敗続きの頃に桓騎をスカウトしたということは、桓騎を副将にした時点で王翦は居なかったと考えるのが筋だろう。

胡傷の師事を受けながらも妻子問題や野心家だったため昭襄王から信頼されず日の目を見なかった王翦を蒙驁がスカウトする経緯にも、桓騎が噛んでいる可能性がある。

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