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鈴木大拙

すずきだいせつ

鈴木大拙は、日本の仏教学者であり、日本の仏教と禅を世界に広めた人物として知られる。
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概要

日本仏教学者・文学博士であり、日本の仏教文化を世界に広めた人物として知られる。

今や欧米を中心に「禅といえば大拙」と言われるほどに有名であり、彼の著書『禅と日本文化(英:Zen Buddhism and its influence on Japanese Culture)』は、新渡戸稲造の『武士道-日本人の魂-』や岡倉天心の『茶の本』と共に日本の三大英書に数えられる名著とされ(内村鑑三の『代表的日本人』が挙げられることもある)、英語でも「ZEN」と書かれるようになった。


人物・経歴

本名は「貞太郎」。明治3年10月18日(1870年11月11日)に[(石川県]]金沢市本多町において、金沢藩(旧:加賀藩)の藩医の家に四男一女の末子として生まれる。

医者である父は臨済宗、母は浄土真宗の信者であり、彼の宗教心は北陸の土地柄と家族によって自然に育まれた。


石川県専門学校に入学後、明治20年(1887年)にその後身である第四高等中学校の予科3年に編入され、ここで生涯の親友となる西田幾多郎と出会い、明治20年(1892年)に東京帝国大学の哲学科に入学した際も彼と一緒だった。

大拙は英語が得意で、19歳で小学校高等科の英語教師を務めたこともあったほど。


帝国大学に入学する前年に、鎌倉円覚寺の学長である今北洪川に付いて参禅し、その後は臨済宗の禅僧である釈宗演の下で修行を積み、25歳の時に見性(人間の根源的本性を徹見すること)を得て、釈から「大拙」の居士号を授けられた。


大学卒業後は、宗演と共にアメリカの宗教学者であるポール・ケーラスの対話本である『仏陀の福音』を邦訳した縁で渡米し、イリノイ州にある出版社の一員となり、11年に渡り中国語文献の翻訳・論説・批評のみならず、東西宗教・哲学・東西神秘思想の研究に努めた。

明治41年(1908年)からは2年かけて欧州各国を歴訪し、その後は13年ぶりに帰国する。当時は38歳。


その3年後、明治39年(1906年)にセオドア・ルーズベルト大統領と会った3日後のヴェーダンダ協会での自身の講演を知り合ったのが縁で、アメリカ外交官の娘で神智学者であるベアトリス・レインと結婚する。


帰国後は学習院や東京帝大で教鞭をとり、大正10年(1921年)には同じ仏教学者で教育者である佐々木月樵の懇請と親友である西田の勧めで、真宗大谷大学教授となる。

更に日本の大乗仏教精神の海外普及のため、妻と英文誌『イースタン・ブディスト』を創刊した。

その後は親友の西田に先立たれるも、死ぬまで仏教の研究と公布に人生を捧げ、95歳で生涯を終えるまで日本語で80冊以上、英語で30冊以上の著書を執筆した。


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