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二式単座戦闘機の編集履歴

2015-06-07 22:40:19 バージョン

二式単座戦闘機

にしきたんざせんとうき

第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍の戦闘機。制式番号は「キ44」。『鍾馗』の愛称で知られる。大馬力エンジンに小さい主翼など、一撃離脱戦法に特化した設計がなされている。戦中実用化された陸海両軍機のなかでも、アメリカ軍からは『迎撃戦なら最適の戦闘機』という評価を得た。

   昭和20年8月14日 東京はすでに燃え尽きていた

   その燃え尽きた灰を守って 鐘馗は空にのぼり 永遠に帰らなかった

   灰を守るために 成層圏の彼方へと消えていった鐘馗

   成層圏は 今も 無限に青い


開発経緯

本機は陸軍参謀本部が1937~38年に示した兵器研究方針にその源流を持っている。

この時期陸軍航空は3種の、性格の異なる戦闘機の開発実用化を目指していた。その要目はそれぞれ

・双発の複座重戦闘機

・九七戦の後継となる、単座の軽戦闘機

・単座、重武装の高速重戦闘機

となっており、このうち単座重戦の開発要求に対する中島飛行機の回答が本機にあたる。


当初重戦闘機の研究開発は難航し、同一の経緯で実用化された軽戦である一式戦闘機に対して制式採用年式で一年の遅れを見ている。

その理由としては日本陸軍は古くから、格闘性能を重視する軽戦闘機至上主義の気風が支配的であったため、運用経験のなかった重戦の基本仕様を纏めることすら覚束なかった事が挙げられる。

当初は武装の違いで区別されていた。日本陸軍での重戦闘機の定義は1940年ごろでは、日中戦争やノモンハン事件などの戦訓から重戦闘機は速力、上昇力、航続力に優れ機関砲を装備した戦闘機とされた。


重戦闘機の開発経験がなかった航空機メーカー各社ついても同様の有り様であった。

このことは一式戦闘機及び二式戦闘機(本機)が、開発段階ではどちらも重戦として開発されていたにも関わらず、結果的に一式戦闘機は軽戦になってしまったというエピソードからもうかがう事が出来る。ただ、二式戦闘機と一式戦闘機の要求最大速度の違いや機関砲の装備が要求されていない点など当時の陸軍の開発方針からすると一式戦闘機は軽戦闘機的要素の強い機体であった。



九七戦の発展型として開発が進められた一式戦闘機に対し、本機はその保険機として位置付けられており実験機的な側面が強かったため、数々の新機軸が採用されていた。


エンジンは当時手に入る最大出力の「ハ41」を採用しており、機首以降は胴体を急激に絞り込んで空気抵抗を抑えることに成功している。

ハ41は元々爆撃機用のエンジンで、当時の零戦一式戦闘機の「ハ115(栄)」を上回る1260馬力を発揮する。これに短い主翼を組み合わせ、日本機としては珍しく一撃離脱の得意な高速戦闘機に仕上がった。


機銃は零戦に搭載された20mm機銃と同系統のものを搭載する予定だったのだが、調達のメドが立たなかったので、12.7mm機銃(アメリカ製M2機銃のコピー)を搭載した。これはオリジナルには無い強力な弾薬を使えるものの、もはや「重戦闘機」と呼べるほどの重武装ではなくなっている。


一式戦闘機で着脱式にされた防弾版だったが、二式単座戦闘機では標準装備となった。13mmの防弾版がコクピット後方に張られており、この重量は60kgにもなる。ただし、のちのアメリカの調査では「M2に対しては不十分」と判定されてもいる。


なお、二式戦闘機には「キ45 二式複座戦闘機(二式複戦)」、海軍の「二式水上戦闘機」などもあり、特に区別する時は「二式単戦」とも呼ばれる。


設計思想と搭乗員の苦難

上記の通り高速の重戦闘機として開発され、ノモンハンの戦訓を受けて実用化された本機であるが...

それまで軽戦闘機に慣れ親しんできた陸軍搭乗員にとって、不馴れな重戦は大変不評であった。

  • 高い翼面荷重に起因する旋回性能の悪さや速い失速速度
  • 低い垂直尾翼高による大迎角時の方向蛇の利きの悪さ
  • 大径エンジンの採用による着陸時の前方視界の悪さ

等の飛行特性がしばしば事故を引き起こさせ、「若い者には乗せられない」「殺人機」など悪評を数多頂戴している。


但し、これはあくまで日本陸軍航空隊にあっての評価であることに留意する必要がある。

本機は欧米戦闘機に比べれば十分旋回性能で上回っており、非常に高い構造強度・急降下速度を誇った。時速800kmで引き起こしを行っても主翼に皺がよらない機体は欧米でも限られた存在である。

米軍からの評価で着陸性能を問題にされていないが、これは米軍の運用する戦闘機は重戦が殆どであるため。扱いに慣れたパイロットであれば、本機程度の前方視界や着陸速度は問題にならないのである。


実戦へ

最初の実戦配備は独立飛行47戦隊で、現在のベトナムインドネシアミャンマーで活躍している。しかし、一式戦闘機を装備した64戦隊に比べると、その活躍は地味だった。一度の飛行時間は「2時間がせいぜいだった」と言われており、燃料の搭載量が少なく航続距離も短かったのが原因である。(『実際には欧米機に比して非常に長かったのであるが。』)


1942年の「ドーリットル空襲」で東京が空襲され、本土防空が脆い事に気づいた時の総理、東條英機の鶴の一声で先の47戦隊を始めとする二式単戦を装備する部隊は、本土へ呼び戻された。同12月には二式単戦そのものも強化が施され、新型の高馬力エンジン「ハ109」(1450馬力)を装備した二型が制式採用されている。この二型が制式採用後の主力モデルである。(生産数の少ない一型は増加試作機に分類される)


実戦では旋回性能が劣ることは問題にされなくなった。

これは前述の通り、本機が欧米機に比しては格闘戦性能が十分高かったためである。後に出し入れの煩わしさから蝶形空戦フラップは廃止されているが、それでも旋回性能が問題になることはなかった。

この機が制式採用後も問題とされたのは、相対的な火力不足とエンジン稼働率が安定しないという点である。


武装は基本的に一型より増強されている。二型乙は対重爆のオプション武装として40mm機銃(ホ301)を装備できた。これは厳密にはグレネードランチャーに分類されるもので、大口径で破壊力があるという長所があった。しかし集弾性能が悪くて弾速も遅く、総弾数も少なかった。(大口径の反動故にフレームが耐えられないためにわずか8発しか装填できなかった)


従って射撃の際は『照準器からはみ出る位まで近づいて撃つ』事が必要とされた。高速で接近するなかで敵の銃火に怯まず、なおかつ一撃にかけて一瞬のチャンスを逃さない技量・度胸が求められる。こんな芸当ができるのはベテランやエースパイロットに限られ、扱いきれるのはトップエースである上坊良太郎大尉のような、ほんの一部のパイロットだけだったとされる。(若手でも戦果を上げた事例が報告されているが、僅かであった。)


武装

前述の通り、重戦としては火力不足が目立っている。

主生産モデルの二型は主翼内に12.7ミリ機関砲を二門装備する。当初に予定されていた20mm機銃は調達も開発もできず、代わりに装備されたのは「ホ103」という、M2機銃のコピー品である。独自の仕様として、本家にはない強力な炸裂弾を使う事ができた。


この機銃は日本陸軍の戦闘機だけでなく、爆撃機の旋回機銃にも使われた。

戦闘機では一式戦闘機二式複座戦闘機三式戦闘機四式戦闘機五式戦闘機(つまり全ての主力戦闘機)に装備され、日本陸軍後期の標準型航空機銃である。


一型甲・二型甲は12.7mm機銃2門に7.7mm機銃2門、一型乙・二型丙では12.7mm機銃が4門となって増強されている。二型乙は胴体の12.7mm機銃2門だけだが、主翼に40mm機銃を装備する事もできる。


必ずしも脆弱な武装ではないのだが、12.7mm機銃は日本における主だった迎撃戦の相手であるB-29に対するには、あまりに分が悪かった。B-29は排気タービンに関連した火災が多かったが、自動消火装置などの防火装備も充実していた為である。40mm機銃は一発でも命中すればB-29を撃墜できるのだが、大変に扱いにくい武器だったのは上述のとおりである。だが、本機の運用が継続された背景には『40ミリ砲』が撃てるからという理由もある。


対『空の要塞』

一撃離脱向きに設計された二式単戦は格闘戦には向かず、『ドーリットル空襲』の後、本土へと呼び戻された。陸軍のインターセプターとして「対爆撃機用の迎撃機」という本来の運用をするためである。


とはいえ高速で重防御のB-29は、二式単戦の能力をもってしても困難な相手だった。前述の高い生存能力に加えて高高度性能がきわめて高かったため、二式単戦は到達限界高度ギリギリでの迎撃戦闘を強いられた。


この高度で、二式単戦は失速寸前で浮いているのが精一杯であり、一度攻撃(すなわち機動飛行)するだけで再攻撃不能となるほど高度を失った。


評価について

日本軍

前述の通り『若手は乗せられない』として危険視されていた二式単戦だったが、

この評価が不適切であることは日本軍のパイロットたちによっても証明されている。


本土防空戦の折、パイロット不足により飛行時間が200時間以下の学徒動員パイロットが実戦機で出撃する事態となったが、このような飛行時間の浅いパイロット達が見事に戦果を挙げるという事例が続発した。


1942年以降は『二式戦闘機を使いこなす事』 が陸軍飛行戦隊の間でステータスとも言われ、その武装や速度に惚れ込んで、一撃離脱戦法に理解がある実戦経験者や、名を上げたエースパイロット達が乗機に選んでいったとされる。また、一般に隼の後継機とされる四式戦闘機は中島飛行機曰く、『あれは基本的に隼ではなく、鍾馗の正統発展型。それに隼の要素をぶっ込んだ機体』 との位置付けである事からも、戦争勃発後に実戦部隊の評価が好転した機体であると言える。


同時期に配備された一式戦闘機よりは火力で勝り、また防弾もしっかりしていた。最大速度も600km/hを超えていて、射撃時の安定も良かった。時代の潮流も一撃離脱戦法に傾いており、欧米の戦闘機運用思想を持ち込んだ傑作迎撃戦闘機であったのは確実である。


二型のハ109エンジンは不調も多かったものの、実戦部隊で評価が上がったことで、次期主力エンジンである「ハ45」(海軍名、誉)エンジンに換装された三型も試作されていたが、後継機の四式戦闘機が開発されたことを理由に新規生産は1944年末終了した。


海外

国内からは賛否両論の機体であるが、国外からの評価は比較的高い。

開発時に採用したドイツ人パイロットは「日本パイロット全員が本機を乗りこなせれば日本軍は最強になる」という発言をしている。


この発言もあり、陸軍は本機の採用を決めた節がある。これを陸軍のドイツかぶれという意見もあるが、重戦闘機運用ではドイツに一日の長があるのは事実なため、この点についてはむしろドイツかぶれを評価するべきだろう。


また戦後の米軍テストでは「迎撃機としては最優秀」との評価を下している。先のドイツ人の発言を「操縦が難しい事への皮肉」とする説もあるが、米軍テストでは操縦の難易度には全く触れていないため、純粋に本機の性能を評価したものと考えていいだろう。アメリカでは一撃離脱戦法が主戦法となったため、こうして急降下性能と火力に優れる戦闘機は総じて評価が高い。


日本だけ? いいえ、違います

なお、開戦当初までの陸軍、及び戦前戦中通じての海軍に根強く存在した風潮を「日本の軽戦闘機偏重」として批判する向きもあるが、同様の論争は当時のドイツアメリカでも起きており、日本だけが批判される理由では厳密にはない。


問題があったとすれば、それはいかに『過去の成功体験から来る盲目の信頼』から脱却すべきかという点である。

というのも、高速戦闘機による編隊空戦・一撃離脱の戦略構想は欧米各国で有力と判断され、戦中には最早諸外国の戦闘機は軒並み高速機になっていた。

それに対して日本陸海軍はノモンハン、中国戦線における航空優勢は自軍戦闘機格闘戦性能の高さによるものであると盲信し、Bf109など性格の異なる戦闘機を目の当たりにする機会もあったにも関わらず、格闘戦性能に偏重する姿勢を日米開戦まで変えることができなかったのである。


この点、日本陸軍は二式単戦で悪評を呼びキ-60を水子に終わらせているが、後続機に当たる三式戦闘機四式戦闘機では、高速な重戦の性格を併せ持った戦闘機へと昇華させたことは評価できる。


これは先にあげたドイツ、アメリカ、それにイギリスソ連でも同じことで、Fw190P-51テンペストYak-9といった高速機体へ帰結していく。


脱却できなかったのは日本海軍であると言える。零戦は高速度で舵の効きが悪かったし、烈風は(空母運用の制約もあったが)翼面荷重に制限がかけられ開発が遅れた。


ただ海軍も同時期に本機と似た設計思想の雷電を開発している(ただしプロペラ振動の問題から実用化が大幅に遅れてしまった。二式単戦に比べると視界が悪いという欠点があったが、重武装と急降下性能では圧倒的に優れており、どちらを迎撃戦闘機として高く評価するかは意見が分かれるところである)うえ、零戦52型は一撃離脱戦法に対応するための改修でもあるし、紫電改で有名な343航空隊などは「二機一組を二組用意した四機チームを維持しつつ、一撃を加え混乱した敵編隊を崩して格闘戦に持ち込む(場合によってはそのまま離脱)」という戦法を用いており、重戦思想を否定していたわけではない。


関連イラスト

二式戦“鍾馗”陸軍の頭デッカチ。

別名・表記ゆれ

鍾馗 二式単戦 キ44

関連イベント

太平洋戦争

関連タグ

戦闘機

B-29


雷電 - 二式単座戦闘機同様に爆撃機用のエンジン(火星二三型)を装備した海軍の戦闘機。開発開始はほぼ同時期だが開発が難航し実用化時期は二式単座戦闘機より遅い。

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