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四式戦闘機

よんしきせんとうき

一式戦闘機、二式単戦に続く新鋭機として中島飛行機と日本陸軍が開発した重戦闘機。機体番号84。
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キ84・四式戦疾風陸軍四式戦とも。

アメリカ軍によるコードネームは「フランク(Frank)」。これは日本機のコードネームをつける部門の責任者「フランク・マッコイ大佐」が、優秀な飛行機に自分の名をつけたからとされている。

マッコイ氏はもともと「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」なる架空の機体にフランクの名を与えていたが、フィリピンで鹵獲した本機をテストしたところ非常に優秀だったため、零式単座双発戦闘機には新たに「ハリー(Harry)」の名を与え、本機に改めて「フランク」の名を与えたと言われている。


『やつはオスカーじゃない!フランクだ!うわさに聞いたナカジマの新型だ!』

『ベテランの乗ったフランクに挑むやつはバカだ!悪いがバカは助けてやれない。神にいのれ!』

松本零士「パイロット・ハンター」より


『(P-51など)赤子の手をねじるがごとし』

四式戦闘機でP-51と対戦した大日本帝国陸軍少佐「若松幸禧(ゆきよし)」の日記より


『大東亜決戦機』

太平洋戦争開始直後の1941年12月29日、陸軍は中島飛行機に次なる主力戦闘機の開発を命じた。設計主任は小山悌(こやま やすし)。

九七式戦闘機一式戦闘機二式単戦と続く中島飛行機戦闘機の集大成である。これまで1000馬力級だったエンジンは1800馬力(量産型のテックスペックは2000馬力を公称していた)の『ハ45(海軍名称NK9「誉」)』に強化され、新しい陸軍航空隊の主力となることが期待された。また愛称は日本全国から広く募集、最も得票数の多かった「疾風」に決定した。


『疾風』飛ぶ

昭和19年3月に制式採用された四式戦闘機は、まず飛行第22戦隊に配備され同年8月に中国大陸に進出。米陸軍航空隊のP-38P-40P-47P-51らと矛を交えた。

22戦隊は精鋭ぞろいだった事もあり、米軍最新鋭機相手に互角の戦いを展開。また前述の若松幸禧少佐が所属する第85戦隊などの活躍も加わって、中国戦線の制空権を一部取り返すなど四式戦はその素性の良さを証明して見せた。


しかし10月12日から始まった台湾沖航空戦では数的劣勢に加え奇襲を受けた事で、迎撃に出た第11戦隊は米機動部隊のF6Fに対し手痛い敗北を喫する。


10月20日に始まったレイテ島の戦いにも他の陸海軍機と共に第四航空軍の疾風が出撃。多数の損害と引き換えに短期間ではあるがレイテ上空の制空権を奪回、確保する事に成功。第一師団のレイテ島侵入などに貢献している。


『頓挫』

しかし、戦局の悪化が日本の工業に与えた傷は深かった。当初はその高性能をいかんなく発揮していた四式戦だったが、量産機が行き渡るにつれ徐々に綻びが見え始める。


資源不足により材料の質は落ち、工場から送られる部品の精度は低下した。熟練工は残らず徴兵され、それを埋めたのは勤労奉仕の素人、それも学生だった。その結果、現場では機体の不具合が続出。当初は60%はあったという稼働率が、末期には内地部隊平均でおよそ40%にまで低下。中には20%や0%という部隊もあったとか(ただし、戦争後期の稼働率低下は疾風に限った話ではない。零戦ですら、1945年にはニコイチ以上の共喰い整備(いわば廃棄せざるを得ない機体を複数集めて1機分の部品を揃えて組み立てる現地再生)が常態化していたのだ)。


『奇跡』の功罪

その主たる原因は飛行機の心臓部であるエンジンにあった。

疾風に搭載されているハ45(誉)エンジンは、同時期の他2000馬力級エンジンに比べ格段に軽量・小型で「奇跡」と呼ばれるほどの高性能エンジンだったが、反面その設計は複雑、精密に過ぎ、当時の日本の工業力では安定した品質を保つ事が極めて困難であった。


悪い事に、四式戦が配備される頃には設計時の前提条件のはずであった高品質ガソリンと潤滑油もすっかり欠乏していた。

ハ45は100オクタンハイオクガソリンはもちろん、高精度の技術で精錬された潤滑油の使用を前提に設計されていたため、87オクタンの陸軍の標準ガソリンでは異常燃焼などの不具合が発生してしまう(ちなみに現在の自動車用ハイオクガソリンがJIS規定で96~100オクタンほど)。

この対策として、吸気温度を下げて異常燃焼を防ぐ水メタノール噴射装置が装備されたが、この装備自体も製造精度が安定せず、冷却する気筒が偏って逆に振動が発生するなどさらなるエンジン不調の原因になった(同様のトラブルはでも起こっている)。


また、当時はエンジンの高品質潤滑油を戦前に備蓄した分(アメリカ製)に頼っており、その供給が途絶えた開戦後は再生潤滑油(汚れた油をフィルターで濾したもの)が多く用いられた。

この悪影響は相当なもので、海軍では、開戦時80%越えだった稼働率が戦争後期には平均40%以下まで落ちていたという。

飛行第104戦隊など再生潤滑油を使わずに高品質潤滑油のみを用いて高い稼働率を維持したという記録もあるが、他の多くの部隊では潤滑油の質的悪化により故障はさらに増加した。


こうした状況の中、陸軍飛行47戦隊は高い稼働率(87%!)を保った。同部隊の整備責任者・刈谷正意(かりや まさい)大尉は、(陸軍の職制には無かったが)整備指揮本部を設けて、現代の鉄道車両などの整備のように綿密な整備記録を取り、それを操縦者(実際に飛んでどうだったかを報告してもらうためでもあり、また陸軍では伝統的に操縦者も手が空いている時は整備を行っていた)を含む整備に係わる全要員で共有して全機を厳密に管理し、一定時間経過した部品は壊れていようといまいと交換するなど、故障する前に直すという体制を徹底した。

この方法は効果的で、全員で整備データを共有するなどしたことから、部隊員の戦死負傷や転出などで人が入れ替わっても、整備の質にあまり悪影響を及ぼさなかった。

これは欧米では当時普通に行われていたものではあるが、要はきちんと整備すれば疾風は普通に飛ぶのである。


個々の整備員の職人芸に頼り、マニュアルはあれども難解、どの部品をどれくらいの時間使用したら交換すべきか統一されていないなど、軍の整備員教育理念の未熟(上述の刈谷大尉も稼働率低下の原因について、戦後「陸軍の整備員教育が間違っていた」事を一因として挙げている)、そして整備技術自体の立ち遅れも、日本機全体の稼働率低下の要因になっていたのだ。


余談1-予防修理について-

刈谷大尉の方法は当時の欧米ではすでに行われていたのは上述の通りだが、実は鉄道省大正時代にはすでに蒸気機関車1両1両の車両実態を履歴管理し、定期的に整備し、整備前には交換部品を準備しておくなど、次の定期整備まで故障なく走らせる予防修繕(鉄道省・国鉄ではこう呼んでいた)を行っていた。

これにより、日露戦争ごろには3か月かかっていたような修理が、昭和初期には5日で終わるようになっていた。

戦時下の材料品質の低下や国鉄工場の熟練工員の応召、代用材を多用した「戦時設計(戦時型)」機関車の増加などによる整備レベルと車両品質両方の低下(当時の日本の工業界は軍需最優先になっており、社会インフラを支える鉄道であってさえ良質の材料が手に入りにくかったという事情もある)が著しくなるまでは、かなり高い整備の質を確保していた。


余談2-三菱のエンジンは?-

実際には、日本製の航空エンジンの稼働率は徐々に落ち、またそれぞれに問題を抱えていた。


誉と同じように『火星』(陸軍ハ111)を18気筒化したハ42(陸軍ハ104)は四式重爆撃機『飛龍』のエンジンとして使われているが、かの『雷電』と同じように凄まじい振動問題を起こした。その酷さは、エンジンを支える発動機架が緩んでしまうほどだったという。これは火星・ハ42とも、クランクシャフトの前列と後列の位相が180度になっていたのが原因で、一次振動が一番大きくなってしまう配置だった(ダイナミックバランサーはまだ試作段階であり、既存エンジンに搭載するという思考はなかった)

また『誉』の対抗馬として開発されていた『金星』の18気筒化版であるハ43は、その搭載機である局地戦闘機『震電』が、ハ43の故障により全力運転出来ないまま終戦を迎えたように、いまだ実戦投入できるようなしろものではなかった。


多少三菱を弁護しておくと、ハ43の元になった『金星』は初期型から最後期の六〇型まで発展する中で最終的に1500馬力と2倍近くまで出力が向上し、信頼性は末期でも比較的に高かった。詳細は「五式戦闘機」の項目に譲るが、疾風より五式戦を高く評価したパイロットが多くいた理由の一つでもあった。18気筒エンジンに比べて低馬力なのは否めなかったが、P-51とは同クラスの馬力ではあった。後知恵だが、実質的に金星の末期型は日本が稼働率を保って扱える範囲で最大馬力の戦闘機用エンジンと言える。


要するに、日本における単発戦闘機用2000馬力級発動機の選択肢は後世の人々がなんと言おうと、「誉/ハ45」以外なかったのである。


『終焉』

その後四式戦は中国、ビルマ、フィリピンなど日本軍が戦ったほぼ全ての戦場で戦い続け、やがて大戦末期の沖縄戦や本土防空戦に参加した。高速の戦闘爆撃機としてタ弾(空対地クラスター爆弾)による攻撃を行い敵車両や航空機に大損害を与えたり、B-29を迎撃、これを撃墜するなど健闘したが、戦局全体から見れば限定的な戦果に過ぎず、最後は海軍のゼロ戦などと同じく特攻に使用されていった。


1945年8月14日、飛行第47戦隊に所属する8機の疾風が大石正三中尉の指揮の下、豊後水道上空で6機のP-38と対戦、5機撃墜2機被撃墜の戦果を挙げた。これが陸軍が最後に行った空戦であった。

翌8月15日、日本は終戦を迎えた。(ちなみに、15日には海軍の第302航空隊の零戦が日本最後の空戦を行った)。


されど決戦機の『誇り』

末期的な話ばかりになってしまったが、本機の性能は日本機としては優秀であり、速度面でも大戦中の世界水準に到達した日本機の一つと言っていい。


速度

昭和18年に陸軍審査部のキ84試作機が『高度6500mで624km/h』の最高速度を記録している。

この機体は二式戦闘機『鐘馗』の改良計画・「キ44-Ⅲ」が基になっており、エンジンは1800馬力の「ハ45特(誉11型)」と同等、排気管は集合式のままだった。



なお量産型は


・エンジンを2000馬力(運転制限時1800馬力)の「ハ45」に換装

・推力式単排気管の採用(これだけで速度が10~20km/h上がる)

・プロペラ直径の増大

・潤滑油冷却器(オイルクーラー)の大型化


などの改修が順次なされており、ハ45の調子にもよるが実戦では650km/h台を出したといわれる。同様の改修を受けた武装強化型である乙型の試験機が『高度6500mで660km/h』を記録したという説もあるが、量産型の最高速度記録は公式には残っていない。


戦後、アメリカで入念な整備、高オクタン燃料を搭載した機体が『高度6100mで689km/h』を出したという記録があるが、これが実測値なのか、推測値なのかは不明である。



機体構造

中島飛行機の集大成と言える堅実なものである。


九七式戦闘機から続く、左右前縁が一直線の主翼(翼端失速がおきにくい)

一式戦闘機でも使われた蝶形フラップ

二式単戦から採用された垂直尾翼を水平尾翼より後方に置く配置(射撃時の座りが良くなる)

・前後分割して作られた胴体 (あまり大きくない工場でも製造、運搬できる)

・後述の生産性を考慮し、できる限り一式戦の治具や部品を流用できるようにする、等


また2000馬力級の戦闘機としては非常に軽量(※)である。


※一型甲で3890kg。他の空冷2000馬力級戦闘機と比較するとF6Fが5700kg、F4Uが5400kg、紫電3900kg、紫電改4200kg(3800kg説あり)、烈風一一型4700kg



新機構

加えて新鋭機にふさわしい要素も模索された。

  • 風防の変更

一式戦、二式単戦はキャノピー後方が全可動する方式だったが、これを中央部のみ動くように改めた。

また乗員が緊急脱出しやすいように、槓桿を引くと風防が持ち上がり風圧で吹き飛ぶことで風防が簡単に外れる機構を装備。さらに風防前面は70mmの防弾ガラスになっている。


  • 基準孔集成法の採用

ドイツで行われていたという大量生産方式の一種。おおざっぱに解説すると


「部品と部品の集成(組み上げ)の際、位置を合わせるのに意外と時間がかかる。だから前もって部品に基準孔(目印の穴)をつけて簡単に位置合わせできるようにしようぜ!」というもの。


結果四式戦の作業工数は一式戦や二式単戦の3分の2以下に短縮、おおいに生産性が上がった。しかし大戦末期になり未熟な素人工が部品を作る様になると、基準孔自体がずれた不良品が大量に出回る事になったとか……


  • プロペラ

大馬力発動機にあわせ、使い慣れたハミルトン系の油圧式ではなく、よりピッチ変更角度の大きいフランスのラチェ電気式プロペラを採用している。しかし調整が難しく、本機の稼働率低下の一因となった(半面一度慣れさえすれば油圧式より整備が楽だったとも)。

直径は3.05~3.1mで、紫電改の3.3mや、烈風の3.6mに比べかなり短いが、これは多少プロペラ効率を悪く(※)しても、主脚を短くして重量を抑えたいという小山技師長の方針によるものといわれる。


※一般的に直径が大きいほど速度、上昇力が上がり、短いとスロットルの反応(加速性)、高速時の効率が良くなる。2000馬力級のエンジンには4翅なら3.8m程度が妥当といわれる。



その他新型の三式射撃照準器の採用や、より堅固になった各種防弾装備など、従来機に比べ相応にグレードアップしている。


武装

武装も一式戦闘機に比べれば大幅に強化されており、機首に12.7㎜機関砲(※)を2門(各350発)、翼内に20㎜機関砲2門(各150発)を装備している。世界的にはこれでも軽武装な方になるが、長い航続性能などを考えあわせれば良好だといえるだろう。防御力の高い米軍機に対抗するため機首の機関砲を20㎜に変更した火力強化型のキ84乙型も開発、500機ほど生産された。

その他250kg爆弾及びタ弾を翼下面に搭載可能で、戦闘爆撃機としても一定の戦果をあげている。


※この12.7㎜はアメリカのM2のコピーだったが本家にはない炸裂弾頭(マ弾)があり、攻撃を受けた米軍パイロットが20mmと誤認するなどその威力は侮れない(マ弾はハッタリだという声もあるが、実際には好評であった)。命中率が良く、故障も少ないため現場のパイロットからは好評であった。



性能バランス

機体設計も格闘戦よりも一撃離脱戦法にふった設計である。

当時の戦闘機に高い格闘性能を持たせるには、旋回時の強いGに耐える主翼強度が必要だった。だがそうすると重量が増して鈍重な機体になる。失われた格闘性能を取り戻すには翼を大きくすればいいが、その結果また機体が重くなる…という負の連鎖が問題になっていた。


そこで四式戦ではわざと舵を重くして急激な操作に制限をかけ、その分主翼の耐G性能を減らして軽量化する事で速度と運動性の両立を図った。そのため、格闘戦に自信のあったベテラン達には嫌がられ、64戦隊は稼働率低下の噂を理由に、部隊規模の受領を拒んだ(ただし、やはり隊員の士気に影響があった上、エース部隊という外聞もあったのか、少数機は保有したようだ)。この事を設計陣は後年、突っ込んで追い続ける戦い方を嫌っていた古参の提言に従って設計していたので、中途半端になってしまったと述べていたという。


とはいえ、時代はすでに一撃離脱戦法に傾いていたし、なによりF6FやP-51などに苦戦していた現場にとってはマトモに対抗できうる「切り札」であった。(ただし、F6Fには練度が不十分な状態では手もなくひねられる程度のものだったが)


設計者は『二式単座戦闘機一式戦闘機の要素を加えた』と語っており、疾風自体は頑丈なので「力いっぱい操縦桿を振れば、格闘性能もそこそこはある」と評するパイロットもいるなど、疾風は一撃離脱戦法も格闘戦も高いレベルでこなせる性能バランスにいたっていることがわかる



一方で上昇力は日本機の中では平均をやや上回る程度(三式戦には勝るが二式単戦には劣る)。

高高度性能も他の日本機と同様に米軍機に比べれば低く、高度6000メートルをピークに徐々に性能が落ち始め、高度8000メートルを超えると急激に性能が低下したという(もっとも一度上がってしまえば、日本機で最優速なのだが)。


航続性能

航続距離は本体タンクのみで1400km、取り外し式翼内タンク込みで1600km。これは実はP-51を上回る(※)。


日本の架空戦記などではよく「航続距離が短い」と書かれがちだが、これは低燃費のエンジンを持つ零戦の初期型、それも増槽(外付けタンク)付の場合(約3000~3500km)と比べてしまうからである。

実のところ増槽を付ければ九州南部から沖縄沖に出撃して、一戦交えて帰ってくるだけの航続性能を持っており、特攻機の直衛などにも使われている。



P-51の基本航続力は1530kmだが、後部胴体補助タンクをつけると約2200kmとなり四式戦を上回る……が、この補助タンクの取り付け位置に無理があり、満載すると戦闘行動が著しく制限された。そのため実戦では規定より少ない燃料で飛ぶ事が多かったという。

なお増槽込みの最大航続距離は四式戦が2500~2900km(米テスト時)。P-51D型が3700~4000km(輸送時)でP-51に軍配が上がる。



生産・発展型

生産数は約3500機で、大戦後半の採用ながらゼロ戦10430機一式戦闘機5750機につぐ戦闘機生産数第3位(期間生産率では第1位)の記録を作っている。これは前述の基準孔集成法の採用など、生産性にも配慮して設計されていた事が大きい(※)。


内訳は一型甲が約3000機、武装を20mm機関砲4門に強化した乙型が約500機。うち約100機は各種試作機であり、いかにエンジンと機体設計に苦労したか、主力機としてどれだけの期待が掛けられていたかが窺える。


また本家中島飛行機のほか、立川飛行機・満州飛行機で木製化や低質鋼材化が計画された。

・立川の木製機、キ106

・立川の鋼材機、キ113

・満飛の「ハ112-II(海軍名称「金星」)」換装機、キ116。

しかしキ106が10機、キ116が僅かに1機、キ113に至っては原型機が80%完成したところで終戦を迎え戦争には間に合わなかった。


・中島による改修案、キ117

こちらはエンジンを「ハ44-14」(2380馬力)に換装、プロペラ、主翼も設計を変え大幅な性能向上を図ったものだった。しかしこちらも設計が80%ほど終わった段階で終戦を迎えてしまい、日の目を見ることなく終わってしまった。


・高高度性能の改善案、「サ号機」

誉(ハ45)の水メタノール噴射を酸素噴射に置き換えたもので、高高度での速度が50km/h向上したが、30分ほど使うと急激にエンジンの調子が下がるなど問題もあり、実用化はされなかった。


※ただし米戦闘機の生産数は軒並み1万機を超えており(大戦中に製造されたP-51だけでも約15000機!)、その全てが太平洋戦線に来るわけでは無いとはいえ、疾風の良好な生産性も焼け石に水であった。


後世の評価

人によって評価の分かれる機体である。


速度、火力、防御力、航続力、運動性、生産性をバランスよくまとめた傑作機であると同時に、エンジンに起因するトラブルに悩まされ続けた機体でもある。

空中勤務者からの評価も真っ二つに分かれ、若松少佐のような一撃離脱戦法を会得したパイロットからは好評を得たが、従来の格闘戦を好むパイロットからは敬遠された。

また配備された部隊は各地に広く散らばっており、同じ誉エンジンを搭載し第343海軍航空隊によって集中的に運用された紫電改のような華々しい逸話も少ない。「誉/ハ45」エンジンに対するマイナスイメージを一身に背負ってしまっている感もある。(ただし、陸軍に第343海軍航空隊のような集中運用の発想がなかった訳ではないらしいが、『主力戦闘機なのだぞ!広く配備してこそ!』と集中配備を上層部が却下したら、その直後に第343海軍航空隊紫電改の活躍が報じられ、提案に関わった関係者はショックのあまりに顔色を失ったという、しょうもない話が伝わっている。)



だがそれは、整備や補給などの管理の行き届かない、あらゆる戦場で戦ったという事でもある。


日本軍の戦った、ほぼ全ての空を「疾風」は飛んだ。

連合軍が攻勢を強めていた戦争後期、主力の「零戦」「一式戦闘機」は既に旧式化し、「雷電」「紫電」「三式戦闘機」は機体の不具合が多発。「紫電改」「烈風」「五式戦闘機」ら新鋭機は諸々の事情により開発が遅れ、完成しても空襲や資材欠乏で生産数が少なかった(※)。


当時の日本陸軍において、圧倒的物量を誇る米軍機相手に質、量の両面で対抗できる機体は疾風をおいて他になく、四式戦は米軍の戦力がピークに達した時期に矢面に立ち、勝算の薄い戦いに身を投じる事となった。

時期が時期なだけに大勝する事こそ無かったが、終戦間際になだれ込んできたソ連軍を二式複座戦闘機と共同で撃破するなど、数に勝る連合軍を相手に最後まで必死に戦い続けた。


戦場に出た後、現場で計測する性能で米軍機を凌駕している訳でも、一式戦のように初心者でも扱いやすい訳でも無かったが、四式戦は終戦のその日まで、陸軍を支え続けた「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機)」だったのである。



戦後における認識

戦後団塊の世代からは(第343海軍航空隊の華々しい逸話もあって)こんなポンコツじゃなくて、紫電改をもっと早く作ってればよかったのにと言われることもままあるなど、米軍に手も足も出ない見かけ倒しの三下扱いされる事がある。一方で、本機のパイロットであった軍人を父に持つ松本零士氏は著作の中でP-51に対抗できる日本の最新鋭機だ!と明言するなど、高く評価していた。なお、亡きヤマグチノボル氏が惚れ込んでいた機体でもある。(彼は本機で大戦後半は戦闘機のラインを統一すべきだったと語ったほどに惚れていた)


※なお、新鋭機の生産数は紫電改420機、五式戦390機、烈風は試作機が8機のみ完成。

その他の機体は雷電630機、紫電約1000機、二式単座戦闘機1230機、二式複座戦闘機1700機、三式戦約2900機。


現存機

アメリカ軍によってフィリピンで鹵獲されて後、機体の修復で有名な「プレーン・オブ・フェイム航空博物館」に払い下げられた一機が唯一の現存機で、レストアされて飛行可能な状態で保存された。

1973年に日本に里帰りし航空自衛隊入間基地にてお披露目飛行をして航空ファンを唸らせた後、日本の実業家に引き取られて展示されたが、実業家の死後展示状態の悪化により飛行が不可能となった。これを知ったアメリカの前所有者が日本に引き渡したことを後悔したという。

長らく部品の盗難に遭ったと言われていたが、2017年に調査したところレストアの際に一部の部品をアメリカ製のものに交換したのを除けばほとんどオリジナルの状態を保っていたという。

その後展示場所を転々としていたが(栃木県宇都宮市京都市嵐山和歌山県白浜市)、1995年に鹿児島県知覧町(当時。現在の鹿児島県南九州市)が買い取り、1997年から知覧特攻平和会館にて展示されている。

2023年2月、日本航空協会より『重要航空遺産』に認定された。なお同協会は四式戦闘機が知覧特攻平和会館に展示される前まで三式戦闘機(現在は岐阜県各務原市岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に保存)を同会館に貸与していた。


かつて知覧に旧日本陸軍の飛行場があって、四式戦闘機が40機配属されて特攻機の誘導や護衛をしていた上に特攻機として4機が出撃【うち2機が未帰還】したため、知覧と縁の深い飛行機でもあった。


余談

松本零士と四式戦

日本陸軍少佐だった松本零士の父親は戦闘機のテストパイロットを務めていた。

その最後の乗機が四式戦であり、教官を務めながらアメリカ軍とも戦っていた。終戦後は行商人となり、生活も赤貧そのものだったが、日本の再軍備の後に元同僚が自衛隊に転籍する中も行商人を続けた。


その理由とは『敵方の戦闘機に乗りたくない!!』という漢そのものな理由であり、

松本零士自身も『俺の父親は最高だ』と語る程だった。

この父親のイメージは作品に強烈に反映され、沖田十三やキャプテン・ハーロックの元となった。

なお、他にも三式戦闘機にも乗っていたようで、作品にはこの機についての描写も多い。

 

登場作品

記事冒頭で紹介されている作品。四式戦パイロットとハンターの交流がメイン(というか実質ハンターが主人公)の話なので、ぶっちゃけ疾風は影が薄い。


    • メコンの落日

一式戦に変わる新鋭機として登場。敵エースの乗るP-51と戦うが……


    • アクリルの棺

味方の視認性を上げるため後部を赤く塗装した機体が登場。このカラーリングを再現したプラモデルが発売されている。


  • Never So Few(邦題:戦雲)

1959年のアメリカ映画でマコ岩松のデビュー作。タキシング映像のみだが稼働状態にあったころの現存機が登場している。


PC版で日本型の戦闘機として登場。空母・航空戦艦の艦載機として運用可能。

20mm機関砲と60kg爆弾を搭載している。

家庭用版ではPS2版『鋼鉄の咆哮 ウォーシップコマンダー』のみ登場する。


2017年秋イベントE-3作戦突破報酬として実装。名前は「四式戦 疾風」。他の陸軍機と同様に基地航空隊でのみ運用可能で、性能は対空+10、対爆+1、迎撃+1、戦闘行動半径5

ゲームバランスの関係か、一式戦 隼III型甲三式戦 飛燕一型丁に性能で同等、もしくは負けているなどかなり抑えめのステータス。


敵役として登場。機体性能とパイロットの腕でコトブキ飛行隊の面々を苦戦させた。

ホームページにてイケスカ所属機と自由博愛連合所属機の二種類のカラーリングを閲覧できる。

アニメ「荒野のコトブキ飛行隊」四式戦紹介ページ


  • WarThunder

日本ツリーに甲型、乙型、丙型が登場。中国ツリーには、課金機として鹵獲した甲型が登場する。

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