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ニコラエ・チャウシェスクの編集履歴

2016-04-10 15:28:06 バージョン

ニコラエ・チャウシェスク

にこらえちゃうしぇすく

20世紀後半のルーマニアの最高指導者(独裁者)ルーマニアの共産党独裁者として君臨したが、ソビエト連邦の『赤い皇帝なみの冷酷さをふりかざした』ゴルバチョフ政権に一瞬で見限られた。ソビエトに市民革命側を武器弾薬を支援される形で引き摺り下ろされる。最後は〈市民革命政権〉に公開処刑された

1918年1月26日~1989年12月25日

20世紀後半のルーマニアで君臨した政治最高指導者で、歴史的な独裁者の一人に数えられる。20世紀後半のルーマニアの最高指導者(独裁者)ルーマニアの共産党独裁者として君臨したが、ソビエト連邦『血も涙も無い』ゴルバチョフ政権に一瞬で見限られた上に。ソビエトに市民革命側を武器弾薬を支援される形で引き摺り下ろされる。最後は〈市民革命政権〉に公開処刑された。


ルーマニアの農家に生まれたチャウシェスクは首都ブカレストに上京し、共産党に入って政治活動をするも、官憲に捕まって収容所に何度も投獄された。この頃に生涯の伴侶・エレナと出会う。

第二次世界大戦でルーマニア王国は敗戦国となり、ソ連に占領されて共産主義体制に移行。チャウシェスクも政治局員として政治に参画できた。1965年に党書記長に就任し、1974年には大統領となり、ルーマニアをルーマニア社会主義共和国に変えた。


東側陣営であったがソ連とは距離を置いて、積極的に東西両陣営を訪問して各国首脳と会談するという独自路線外交を進め、「東欧の異端児」と呼ばれた。

内政では豊富な資源を背景に政権を運営。離婚堕胎を禁じて人口増加を図ったが、逆に孤児が国内に溢れて社会問題となった。西側各国から融資を受けたが、その対外債務返済のために物資のほとんどを輸出に回してしまい、経済は破綻状態に。一方でチャウシェスクは自身の個人崇拝を強め、チャウシャスクとその一族は贅沢な暮らしをし、虚偽の宣伝を広めた。

国民生活は逼迫し、国民を顧みないチャウシェスクへの反感は高まったが、秘密警察「セクリタテア」によって監視社会が構築され、ますます国民の生活は抑圧された。


1989年にソ連のゴルバチョフゴルビー)のペレストロイカにより『徹底的な民主主義以降路線』が敷かれ、ゴルビーソ連政権はソ連同盟社会主義共産党独裁政権に民主主義へ移行する指令をだしていた。


 ルーマニアにも民主化・自由化の機運が高まり、チャウシェスクはかつての、〈反革命騒乱〉を当時のブレジネフやフルシチョフのソ連政権と同じ処置、すなわち戦車軍団による市民の皆殺しも含めた鎮圧をを求め、ソビエト連邦にWTO軍(ワルシャワ条約機構軍)に援助を求めた。


 しかしゴルバチョフは〈この際だから時代遅れのルーマニアの独裁者〉には消えてもらうと、チャウシェスク政権を赤い皇帝なみの冷酷さで鎮圧拒否をした。独裁政治を進めるチャウシェスクを両陣営とも見放した上、市民化革命勢力側に武器弾薬を提供しルーマニア共産党独裁制政権をうち滅ぼしてOKとした。チャウシャスクは共産党独裁者として皇帝のように振舞っており、ゴルバチョフの改革に否定を示していたので、ゴルバチョフ政権側からすれば『ルーマニアはソビエト社会主義民主政治革命に反抗する反革命者』であるということになった。時代が変わると恐ろしい・・。


 やっぱりゴルバチョフはなんだかんだいって怖い・・。


 〈ソビエト連邦の公認ルーマニア共産党独裁制政権をうち滅ぼしてOKとなった〉ルーマニアでは国内に暴動が多発し、チャウシェスクは自分を称賛する集会を開いて演説したが、群集は独裁政治に対する抗議集会へと変貌し、収拾がつかなくなってチャウシェスクは動揺してしまい、おまけにその一部始終が全国にテレビ中継されていたため、抗議運動は全国へ拡大。「ルーマニア革命」となった。ソ連軍不介入が判明すると軍隊も革命軍に参加し、完全にチャウシェスクは孤立して政権は崩壊し、逃亡。革命軍に捕まって裁判を受け、夫婦ともに公開処刑となり、その様子は映像に残された。


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ルーマニア 独裁者 冷戦 東欧

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