概要
ルーマニア:Nicolae Ceaușescu
1918年1月26日~1989年12月25日
20世紀後半のルーマニアで君臨した政治最高指導者で終身大統領(第一人者)、歴史的な独裁者の一人に数えられる。
ルーマニア革命を止められず、ソ連のゴルバチョフに見限られ、最後は市民革命政権に公開処刑された。
生涯
ルーマニアの農家に生まれたチャウシェスクは首都ブカレストに上京し、共産党に入って政治活動をするも、官憲に捕まって収容所に何度も投獄された。この頃に生涯の伴侶・エレナと出会う。
第二次世界大戦でルーマニア王国は敗戦国となり、ソ連に占領されて共産主義体制に移行。チャウシェスクも政治局員として政治に参画できた。1965年に党書記長に就任し、1974年には大統領となり、ルーマニアを「ルーマニア社会主義共和国」に変えた。
東側陣営であったがソ連とは距離を置き、独裁者ながら教養と知性を持った明快的政治家存してと『表面上』ふるまった。(共産主義の独裁者ではよくあること)
積極的に東西両陣営を訪問して各国首脳と会談するという独自路線外交を進め、「東欧の異端児」と呼ばれた。
内政では豊富な資源を背景に政権を運営したが、自身と家族エレナ・チャウシェスクが1%の富を独占し99%の勤労者国民(プロレタリ)は明日食べるものにも事欠く生活であった。しかも社会主義体制では餓死しないよう最低現の食事は配給されたが、利益や成果は国民に還元されなかったという無間地獄である。そして政権に刃向かう人々は共産主義政府特有の器量の狭さで粛清された。
ルーマニア政権の独裁者となってから後年に入ったころ、経済がついに救いようが無いほど停滞し始める。離婚と堕胎を禁じて人口増加を図ったが、逆に孤児が国内に溢れて社会問題となった。西側各国から融資を受けたが、その対外債務返済のために物資のほとんどを輸出に回してしまい、経済は破綻状態に陥った。
一方でチャウシェスクは自身の個人崇拝を強め、チャウシャスクとその一族は贅沢な暮らしをし、虚偽の宣伝を広めた。国民生活は逼迫し、国民を顧みないチャウシェスクへの反感は高まったが、秘密警察「セクリタテア」によって監視社会が構築され、ますます国民の生活は抑圧された。
1989年にソ連のゴルバチョフのペレストロイカの影響がルーマニアにも及び、民主化・自由化の機運が高まり、チャウシェスクはかつてソ連が東側陣営での民主化運動を武力鎮圧したようにソ連にワルシャワ条約機構軍に出動を要請した。しかし、独裁政治を進めるチャウシェスクを両陣営とも見放した上、ソ連は市民革命勢力側に武器弾薬を提供すらした。
市民の暴動が多発し、チャウシェスクは自分を称賛する集会を開いて演説したが、集会は群集により独裁政治に対する抗議集会へと変貌し、収拾がつかなくなってチャウシェスクは動揺してしまい、おまけにその一部始終が国内外にテレビ中継されていたため、抗議運動は全国へ拡大。東欧革命の一つ「ルーマニア革命」となった。
ソ連軍不介入が判明すると大統領直属のルーマニア革命防衛軍も革命軍に参加し、完全にチャウシェスクは孤立して政権は崩壊し逃亡。
革命軍に捕まって裁判を受け、夫婦ともに公開処刑となり、その様子は映像に残された。
ソビエト連邦はこの市民革命政府を公認し、後継国家『ルーマニア』も承認した。旧共産主義政権の幹部の犠牲に関してはお咎めなしとした。