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真田信繁の編集履歴

2016-11-01 23:28:20 バージョン

真田信繁

さなだのぶしげ

真田幸村の元となった歴史上の人物。真田昌幸の次男で、大坂の役において豊臣側に付いて奮闘したことでも知られる。

概要

  • 生誕:永禄10年(1567年)

※一説では永禄13年2月2日(1570年3月8日)とも言われている。

  • 死没:慶長20年5月7日(1615年6月3日)

※一説では寛永18年(1641年)とも言われている。


一般的には「真田幸村」の名前で知られるが、存命当時の資料でこの名前は見当たらず、後世つけられたものとされる。


この項目では史実における「真田信繁」について扱うものとし、講談等、各種創作作品で有名になった「真田幸村」については当該項目参照。


この項目では「講談で描かれた事象のうち、史実のように知られる事象」と「実際の史実における事象」との違いを比較する場合のみ幸村を扱うものとする。

人物

関ヶ原の戦いでは父・昌幸と共に西軍につき、徳川秀忠の軍勢を上田で苦しめ、徳川、豊臣手切れとなって行われた大坂の陣では冬の陣で大坂城南に出城(いわゆる「真田丸」)を築き、そこで防衛戦を行い、徳川方に大きく被害を与え、続く翌年の夏の陣では終盤徳川家康の本陣へ突入し、それに対し家康は大きく後退し逃げ切り、疲労がたまったところを松平忠直配下の足軽に討たれたとされている

真田幸村RT-1

大坂入城までの動き

真田昌幸の次男として、1567年に生まれる、兄は信之真田家は当時武田信玄の配下であったが、1582年に武田家が滅亡して以降、人質として上杉家や豊臣家に出されたりしたが、いずれの家でも扱いは高かった。この間、大谷吉継の娘を妻としており、これが関ヶ原の戦いでの伏線ともなっている(兄・信之の妻は本多忠勝の娘小松姫


1600年の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と共に、西軍につき徳川秀忠の軍を上田城にて釘付けにして、関ヶ原に間に合わせなかったという功績を建てるが、肝心の西軍が徳川家康に敗れたため、処刑されそうになった所を東軍についた兄・信之の助命嘆願もあり、高野山の九度山に配流となる。


1613年、父・昌幸が配流先の九度山で死去。これを前後して、大坂方と徳川方の緊張が高まり、一触即発の雰囲気となる。そんな中、大坂方からの誘いを受けて入城することになる。


後世の創作作品の影響から、戦功が過剰にいわれる事が多いが、大坂の陣以前の真田氏による戦い(上田城での2度に渡る徳川軍の撃退など)の殆どは父・昌幸の主導によるもので、信繁が活躍したとする文献はほとんど存在しない。よって当時は「真田」と言えば昌幸もしくは信之を指すのが常識で、創作では幸村入城の知らせを聞いて「親の方か、子の方か」と家康が問いただし、子(幸村)の方だと聞き安堵したというのはこれが元になっている。


大坂の陣において

冬の陣

当初、大坂城に入城した際も兄信之が徳川方の大名だったこともあり大坂城内でも疑惑の目で見られるなどほとんど信用されなかったが、それ以前に武将としての実績が乏しかったからでもある。後藤又兵衛などとともに5人衆の扱いを受けてはいたが、これは信繁が元大名真田昌幸の血筋を引く者としての評価である(当時は何より血筋や格式がモノを言った時代である)。開戦前、大坂方主脳部の考える籠城策には反対し、出撃策を主張したが、退けられる。


また各種創作作品で見られるような破格の待遇を受けたことはなく、大坂方の軍事方面における総大将はあくまで豊臣家の当主・秀頼であり、軍師級の待遇を受けていたわけでもない。信繁自身は総兵力数万いる中での数千人規模の一方面の中級指揮官でしかなかった。


冬の陣で「真田丸」を築いて徳川方を迎撃し、多数の被害を与え、初めて「真田信繁」の武名をあげるが、戦い自体は講和となる。この直後、徳川方から10万石で勧誘を受けるが拒否している。


なお後述の夏の陣も含め、信繁は真田の代名詞でもある六文銭の家紋を旗印に使わなかったとされる。これは敵の徳川軍に、信之の子で信繁の甥にもあたる真田信吉らが参戦した事情にはばかったものとされる。


夏の陣

夏の陣では緒戦の「道明寺の戦い」において伊達政宗軍を破り後退させているが、同戦いでは後藤又兵衛を戦死させており、この原因については真田隊の到着が遅れたためともされるが、一方で後藤又兵衛が信繁らの到着を待たずに戦端を開いたためともされ、敗因の責任についてははっきりしない(主脳部の作戦ミスともあるが、これについて言えば信繁には戦略的主導権はない)。この際、切腹を口にして、毛利勝永に止められている。


どちらにしても大坂方の戦況が俄然不利になったのは確かで、信繁ら豊臣方は家康の首を取ることに起死回生を図った。


最後の決戦となった「天王寺の戦い」において、まず大坂方は総大将・豊臣秀頼の出陣を促して全軍を鼓舞させようとしたが、出撃は叶わなかった。この戦いにおける主な作戦は「敵の主力を引きつけて、戦線を出来るだけ伸ばして家康本陣を手薄にして本陣を急襲して家康を討つ」というもので、当初家康を討つ役割に充てられたのは信繁でなく明石全登であった。しかしここにおいても諸隊の連携がうまくいったとは言えず、作戦開始前に戦端を開いた毛利勝永隊らの奮戦から思いもかけない混戦となり、結果として家康の本陣を急襲する役割となったのは信繁や勝永となった。しかし、家康の本陣を大混乱に陥れたものの、肝心の家康の首を挙げることはかなわず、信繁は疲労して休んでいる所を襲われ討たれるのであった。


同日、大坂城は炎上、翌日秀頼と淀殿は自害し(信繁の長男大助もそれに従い自害)、大坂の役は終わっている。


死後

信繁の子のうち次男守信が伊達政宗の家臣片倉重長に保護され家臣となる。その存在は幕府に憚り隠されてきたが、後に真田姓を公式に名乗ることを許され、真田信繁の血統を現在まで守っている(なお信之の直系の血筋は江戸時代中期に途絶えているがこちらも現在まで家名は続いている)。他に三男(母親は豊臣秀次の娘で、出生は信繁の死の2ヶ月後)は出羽亀田藩主岩城宣隆の元で仕えるなど、いずれも賊軍の将の子としては破格の待遇を各所で受けることになる。


評価

「真田幸村」としての知名度もあって、過大に評価されているという声も大きいが、大坂の陣で圧倒的兵力の徳川勢を相手に僅か数千の兵で怒涛の攻勢を掛け、家康の本陣にまで斬り込むという神懸かり的な武力を発揮したのは紛れもない事実であり、島津忠恒が信繁を「日本一の兵(つわもの)」と評したのも史実に基づく事実である(和根崎剛『真田歴史読本』)。ただし、島津忠恒は直接には大坂の陣には参加しておらず伝聞によるものだと補足すべきであろう。実際の大坂夏の陣に参戦した細川忠興は信繁の勇戦を「古今これなき大手柄」と讃え、西尾仁左衛門に討たれたことについても「(西尾は信繁が)傷ついて倒れていたところを討てただけで手柄と呼べぬ」としており、実際に参戦した武将の目にもその戦ぶりは称賛されていたようである(和根崎、同書)。歴史家としても知られる徳川光圀は、信繁が徳川家に災いをもたらすとされた妖刀村正」を常に所持していたという逸話に触れ、「武士ならば真田のように主家に対して心を尽くしたいものだ」とその豊臣家に対する忠勤ぶりを評している(和根崎、同書)。

いずれの評価も同時代や後世の人間による評価であり、信繁自身が他人の功績を盗んだというわけでは無いが、毛利勝永らの評価が霞んだことには当時から批判の声が上がっている。


その性格は信之の言葉によると「物静かで怒る事は少なく、柔和で辛抱強い」という(『幸村君伝記』)。また江戸中期の歴史家・神沢貞幹によれば「性格は素直であり、人に会う時はいつも笑顔で場を和ませた」という(『翁草』)。実像は勇猛な武将のイメージとはかなり違うようだ。ただし、子供の頃に失敗した家臣を追いかけまわした挙句殺したという話もある(信之にも似た事例があったが、信之は家臣を許している)。なお、大坂の時には出家していた為、丸刈りだったらしい。


関連タグ

日本史 戦国時代 真田家

真田幸村(講談・その他創作作品における概要はコチラを参照)


関連人物

血縁者・親戚

真田昌幸(父) 山手殿(母) 村松殿(姉) 真田信之(兄)

竹林院(妻) 真田大助(子) 真田阿梅(娘)


真田幸隆(祖父) 恭雲院(祖母)

真田信綱(伯父) 真田昌輝(伯父) 真田信尹(叔父)

矢沢頼綱(大叔父) 矢沢頼康(従兄弟違)


大谷吉継(岳父)

小山田茂誠(姉婿/義兄) 小山田之知(甥)

稲姫/小松姫(兄嫁/義姉) 真田信吉(甥) 真田信政(甥)


大坂牢人五人衆

長宗我部盛親 後藤又兵衛 毛利勝永 明石全登

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