※pixivではヘタリア(APH)の擬人化キャラクターが圧倒的に多く、詳しくはトーリス・ロリナイティスを参照。
ヨーロッパ北東部に位置する共和制国家。
バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の一国に数えられ、北にラトビア、南にポーランド、東にベラルーシ、南西にロシア(飛び地)に面している。
首都はヴィリニュス。
概要
正式名称はリトアニア語でLietuvos Respublika(リエトゥヴォス・レスプブリカ)。
通称Lietuva。
英語表記は、 Republic of Lithuania 。通称Lithuania。
日本語では「リトアニア共和国」で、通称「リトアニア」。
ソビエト連邦構成共和国であった時代の国名は「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」であった。
文化
映画『羊たちの沈黙』に登場するハンニバル・レクターはこの国出身。
文学
中世、リトアニアにおける文学の多くは当時の学術言語であったラテン語で書かれた。
リトアニア王ミンダウガスによる勅令はその一例である。
また、ゲディミナス大公の手紙もリトアニアにおけるラテン語で書かれた重要な著作物の例である。
16世紀になるとリトアニア語による著作が登場する。
1547年、マルティナス・マジュヴィーダス (Martynas Mažvydas) がリトアニア語で『平易な語による教理問答』 (Catechismusa Prasty Szadei) を編纂し発行した。
これがリトアニア語による本の印刷の始まりである。
その後ミカロユス・ダウクシャ (Mikalojus Daukša) が教理問答を引き継いでいる。
16世紀から17世紀におけるリトアニア文学は主に宗教に関するものだったが、その後啓蒙時代になるとクリスティヨナス・ドネライティス (Kristijonas Donelaitis) が登場し、それまでの宗教中心のリトアニア文学を変えた。
彼の著した「春の喜び」「夏の働き」「秋の幸」「冬の不安」の四篇からなる『一年』は国民的叙事詩であり、リトアニアの創作文学の礎を築くものであった。
19世紀前半のリトアニア文学は古典主義、感情主義、ロマン主義の特徴が合わさったものであった。
当時の代表的作家としては、アンタナス・ストラズダス (Antanas Strazdas) 、ディオニザス・ポシュカ (Dionizas Poška) 、シルヴェストラス・ヴァリウーナス (Silvestras Valiūnas) 、マイロニス (Maironis) 、シモナス・スタネヴィチュース (Simonas Stanevičius) 、シモナス・ダウカンタス (Simonas Daukantas) 、アンタナス・バラナウスカス (Antanas Baranauskas) などが挙げられる。
ロシア帝政下にあったリトアニアではリトアニア語による印刷物の発行が禁じられており、そのため本を密輸する地下運動が行われるようになった。
20世紀リトアニア文学の代表的作家としては、ユオザス・トゥマス=ヴァイジュガンタス (Juozas Tumas-Vaižgantas) 、アンタナス・ヴィエヌオリス (Antanas Vienuolis) 、ベルナルダス・ブラズジョニス (Bernardas Brazdžionis) 、ヴィータウタス・マチェルニス (Vytautas Mačernis) などが挙げられる。
美術
1933年に設立されたリトアニア美術館は、美術作品の保護・展示を行うリトアニア最大の施設である。
その他、重要な施設としてはパランガ琥珀博物館があげられる。
リトアニアで最も有名な画家としてはミカロユス・チュルリョーニスがあげられる。
彼は作曲家としても知られている。
カウナスの国立チュルリョーニス美術館には彼の作品が多く展示されている。
2011年には新たにヴィリニュス・グッゲンハイム・エルミタージュ美術館が設立される予定である。
これはアメリカ・ニューヨークのグッゲンハイム美術館とロシア・サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館によって共同設立される。
世界遺産
リトアニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件存在する。
・ヴィリニュスの歴史地区
・クルシュー砂州
・ケルナヴェの考古遺跡
・シュトルーヴェの測地弧
リトアニアのテーマパーク
有名なものに首都ビリニュスの近郊にオープンした「旧ソ連」を体験できる参加型テーマパーク「Soviet Adventure Park 1984」が日本でも話題になった。
3時間リアルな拷問を体験できる。
テーマパークと呼べるのかどうか微妙な施設である。
歴史
リトアニア大公国
リトアニア人は、バルト人の一派で、ドイツ騎士団を初めとする北方十字軍との抗争の中で団結して行った。
13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、ミンダウカスのもと最初の統一を成し遂げリトアニア大公国を成立させた。
14世紀、ゲディミナスは東欧に勢力を伸ばし、現在のベラルーシ、ウクライナまで拡大していった。
また、ヴィリニュスを建設し首都とした。
その後ドイツ騎士団との抗争は続き、リトアニア大公国が異教徒の国でありながら伝統的にリトアニア大公国と関係が良かったキリスト教国家で、ポメラニア平定のさいにドイツ騎士団が起こした金銭トラブルでドイツ騎士団と揉めていたポーランド王国へ接近して行った。
ポーランド・リトアニア連合王国
恐らくリトアニアの歴史の中でも最も知名度が高いと思われる。
1386年にリトアニア大公ヨガイラは、ポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚、ローマ・カトリックに改宗すると同時にポーランド王に迎えられた。
リトアニア大公国は、初期はポーランド王国と連合国家として対等な地位を築いた。
1410年、ポーランド・リトアニア連合は一致してドイツ騎士団を破り(ジャルギリスの戦い)、両国は、東欧の大国として君臨した。
しかし、リトアニア人貴族は次々と母語をリトアニア語やベラルーシ語から自発的にポーランド語に変えてポーランド社会へと同化し、16世紀中葉に開始されたリヴォニア戦争において、ルブリン合同が成立すると、リトアニアは自治権を放棄し、ポーランド「共和国(Rzeczpospolita)」の一地方となったが、この共和国はその勢力の最盛期を迎え、当時のヨーロッパ最強の国家となった。
その後「共和国」の強大化に危機感を抱いた周辺国により「共和国」は弱体化し、リトアニアは18世紀初頭の大北方戦争によって、一時スウェーデンの支配下に置かれたが、スウェーデンの敗北により、再び「共和国」の支配下に戻った。
しかし、「共和国」の衰弱は、近隣諸国の介入を招き、ロシア帝国やプロイセン王国の影響力が高まり、1772年の第一次ポーランド分割の後、リトアニアもその分割の脅威にさらされる事となった。
第一次世界大戦とロシア革命
第一次世界大戦が始まると、1915年にドイツ帝国に占領された。
リトアニア人住民はドイツ帝国軍に対し抵抗運動を展開したが、1917年11月7日にロシア革命が起こりソビエト連邦が成立すると、事態はより複雑化し、リトアニア人住民とドイツ帝国軍、赤軍、それに旧ロシア帝国白軍や、さらにはポーランド・リトアニア共和国の復活を望んだ住民が入り乱れ、戦いが繰り広げられた。リトアニアはドイツ帝国軍占領下の1918年2月16日、独立を宣言、しかしその後もリトアニア人住民は戦いを余儀なくされた。
第一次リトアニア共和国および中部リトアニア共和国
独立宣言後も諸外国との戦いが続けられたが、1920年、リトアニア共和国として民族自決による独立が諸外国から承認される。
1919年よりソビエト連邦に占領されていたヴィリニュス地域は1920年7月12日のソビエトとの講和条約によりリトアニアに側に引き渡す合意がなされたが、その後もポーランドとの軍事衝突は起こり、10月7日には合意文書が調印されリトアニア領であるとされたものの、その翌日にはポーランド軍によって侵攻され、そのままポーランドに占領された。
その後この地域には緩衝国家の中部リトアニア共和国が建国され、1922年には中部リトアニア共和国はポーランド第二共和国に編入された。
そのためリトアニア共和国の首都は憲法上はヴィリニュスと明記しつつも、カウナスが臨時首都とされた。
この状況はその後1939年まで続いた。
しかしリトアニア共和国では民主的政権運営は長くは続かず、1926年に軍事クーデターが勃発。
アンターナス・スメトナの独裁政権が成立した。
その一方で、ポーランド第二共和国、ヴァイマル共和国、ソビエト連邦との紛争も絶えず、ナチスドイツの干渉によってバルト海の港湾都市メーメルを失う。
更に同年アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ナチスはリトアニアをはじめバルト三国とフィンランドをソビエトのものと認めてしまい、リトアニアの命運は決まった。
1939年9月1日にナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦の3ヶ国がポーランドを侵略し、リトアニアはこれに乗じてヴィリニュス地方をポーランドから奪い取り占領した。
ソ連への併合
ナチスドイツのポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まると、1940年にソビエト連邦に併合された。
その経緯は次のようなものである。
ソビエト連邦政府は、自国の国境警備隊兵士が誘拐され、それに関わったとされるリトアニアの政治家の追放、投獄を要求して、リトアニアに対し最後通牒を突きつけたのである。(この誘拐事件はソビエトの自作自演と考えられている。)
これを口実にソビエト連邦軍はリトアニア領内に入れようとした。
スメトナ大統領は主戦論を唱えたが、政権内部はソビエトの要求を受け入れるのが大勢となった。
1940年6月15日、ソビエト軍15個師団15万人が無抵抗のリトアニアに進駐し、辞任したスメトナに代わりアンタナス・マーキス首相が大統領に就任した。
ソビエトのリトアニア駐在公使ウラジミール・デカノゾフはリトアニアの政治に介入し、親ソビエト派のユースタス・パレツキス政権を樹立する。
政権は詩人や歌手などリトアニアの有名人で構成され、首相の選任はリトアニア憲法の手続きによらずに行われた。
7月にはリトアニア共産党の候補しか立候補できない選挙により、人民議会が構成された。
人民議会は7月21日リトアニアのソビエト連邦加盟を宣言、8月3日、ソビエト最高会議はこれを許可した。
こうしてリトアニアは、ソビエト連邦構成共和国の一つ「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」となった。
なお、カウナス駐在の大日本帝国の領事だった杉原千畝が、ユダヤ人に大量のビザを発給したのは1940年7月のことである。
ヨシフ・スターリン政権下のソビエトは、3500人のリトアニア人をシベリアなどに追放し、数千人が殺された。
リトアニア各地で40以上の大量虐殺事件が起きている。一方、独立を目指す地下活動も始まった。
1941年6月22日、ナチスドイツはソビエト連邦に侵入した。
これに乗じてリトアニアは独立を宣言。しかし、ナチス軍が進駐すると、少しずつ、この政府の権限を奪っていった。
この政府は1941年8月7日、解体された。
ナチス軍の占領下ではユダヤ人の虐殺も行われた。
1944年、ソビエト軍は再びリトアニアを占領し、1945年のヤルタ会談とポツダム会談で英米にリトアニアがソビエト連邦に加盟する共和国であることを認めさせた。
1942年から1952年にかけて、スターリン政権下でリトアニア人のシベリア追放政策が再開される。
公式統計によると、この時期、12万人以上が追放にあっている。
ソビエトに対する抵抗活動も続き、最後のパルチザンが戦闘死したのは1965年になってのことである。
スターリンはリトアニア人以外の人々、特にロシア人のリトアニア入植を進め、工業化を図った
リトアニア独立革命
1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党第一書記になり、いわゆるペレストロイカが始まると、1988年に民族組織「サユディス」が組織され、ラトビア、エストニアなどと連携して独立運動を進める。
独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年8月23日にはヴィリニュス-リガ-タリンを結んで600kmに渡る「人間の鎖」(バルトの道)が形成され、世界に独立を訴えた。
1990年3月、サユディスが選挙に圧勝すると、非共産党員としてはじめて共和国最高会議議長に就任したヴィータウタス・ランズベルギスは、3月11日、ソビエト連邦構成共和国の中でいち早く独立を宣言。
1991年1月、ゴルバチョフ政権は武力を投入して放送局やテレビ塔を占拠、非武装の市民14名が死亡し、700人が負傷した。
この模様は日本テレビのドキュメンタリー取材で、議会周辺の模様が日本で後に放送された。
しかし、ソ連8月クーデターが失敗すると、各国が独立を承認。
1991年9月6日についにソビエト連邦も正式に承認し、実質的独立を達成した。
そして、その1991年の末日に、ソビエト連邦は崩潰した。
独立後
1991年9月17日、バルト三国はそろって国際連合に加盟した。
独立と自由を勝ち取ったが、市場経済はうまく機能しなかった。
特に失業が増えて深刻な社会問題となった。
こうした中でサユディスは支持を失い、1992年の総選挙では旧独立派共産党が改称したリトアニア民主労働党が勝利した。
ヴィータウタス・ランズベルギスに代わり、アルギルダス・ブラザウスカスが最高会議議長となった。
1993年には大統領制が導入され、ブラザウスカスは初代大統領に当選した。
この政権は独立は堅持し、極端な逆戻り政策は行わなかったが、経済もよくならなかった。
1996年の総選挙ではランズベルギスが結成した保守政党祖国同盟が勝った。
国営企業の民営化も課題であった。
ソビエト連邦軍を継承したロシア連邦軍の撤退にも時間がかかり、完了したのは1993年である。
度重なる政権交代のため、リトアニア国軍の建設にも手間取った。
1998年、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国に亡命し、アメリカ政府高官も勤めていたヴァルダス・アダムクスが大統領に当選。
ようやく、経済が好転する。
その後、ロシア連邦とは宥和を掲げながら、西欧への接近を進め、2001年にWTOに加盟、2004年にはNATOおよびEUに加盟した。
2008年6月、リトアニア議会は、二戦と冷戦での占領と圧制に因んで、ソビエト連邦の標章とナチスドイツの標章の両方を公の場で掲げる事を禁止する法案を可決した。
これは、ナチとソビエトによる圧制、特にソビエトによるリトアニア併合を「占領行為」と見なすためで、禁止の対象には、「鎌と槌」や「赤い星」を模った旗やバッジのほか、ソビエト連邦の国歌の演奏も含まれる。
2007年に、同じバルト三国のエストニアが「鎌と槌」と「鉤十字」の両方を法律で禁止した時には、ロシア連邦政府は「ナチとソビエトの同一視は歴史への冒涜だ」と批判した。
健康
2009年におけるリトアニアの新生児の平均余命は、男性66歳、女性78歳であり、これは欧州連合の中でも最も男女差が大きく、また男性の平均余命は最も低いものである。
2008年における新生児の死亡率は1,000人あたり5.9人となっている。人口成長率は0.3%。
リトアニアの自殺率はソ連からの独立回復期急激に上昇し、現在ではリトアニアは世界で最も自殺率の高い国の一つとなっている。
しかし近年はその自殺率も低下傾向にあり、世界保健機関 (WHO) によると、リトアニアの10万人あたりの自殺者数は1995年の時点で45.6人であったが、2000年には44.1人、2005年には38.6人、そして2007年には30.4人と推移しており、現在ではベラルーシの自殺率がリトアニアを上回る結果となっている。
リトアニアはまた、欧州連合の中で殺人発生率が最も高い。
国際関係
2009年5月4日現在、リトアニアは154カ国と外交関係を樹立している。
また、6大陸94カ国に在外大使館を設置しており、大使館を設置していない2カ国に領事館を設置している。
リトアニアは1991年9月18日以来国際連合加盟国であり、また国連機関やその他国際機関にも加盟している。
また欧州安全保障協力機構 (OSCE) や北大西洋条約機構 (NATO) 、欧州評議会、そして欧州連合 (EU) の加盟国でもある。
2001年5月31日からは世界貿易機関 (WTO) にも加盟しており、現在は経済協力開発機構 (OECD) などへの加盟を目指している。
他方で、旧ソ連の連邦構成共和国でありながらも、独立国家共同体 (CIS) には加盟していない。