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聖徳太子の編集履歴

2018-01-23 04:01:04 バージョン

聖徳太子

しょうとくたいし

『聖徳太子』とは、飛鳥時代に存在した歴史上の人物。

概要

  1. 飛鳥時代に存在した皇族天皇を中心とした中央集権国家体制の確立と、日本における仏教の隆興に尽力した政治家
  2. 上記の人物を題材とした創作作品上の登場人物。

来歴

用明天皇の第二皇子。本名は「厩戸皇子」(うまやどのみこ)、または「厩戸」(うまやどのおおきみ、うまやどおう)。


一般的に用いられる聖徳太子の名称は、生前の徳の高さを讃えた諡号(薨去に際しての神道における贈り名)であり、この諡号そのものも薨去から84年後に当たる慶雲3年(706)頃に作られた法起三重の露盤に記された「上宮太子聖徳皇」(じょうぐうたいし しょうとくこう)の銘文でようやく記録として登場するものである。


敏達天皇3年(574)1月1日、大和国高市郡飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香)の寺の地にあった行宮で、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、欽明天皇の第三皇女)の間に生まれる。皇族の血筋に加えて、世襲の大臣(おおおみ)として天皇の執政を補佐し欽明天皇の妃となった姉妹の父親である蘇我稲目の曾孫でもあり、当時は数少ない崇仏派であった蘇我氏の影響を受けて幼い頃から仏教を学び、卓抜した聡明さは数々の逸話として遺されている。


用明天皇2年(587)7月、世襲の大連(おおむらじ)として天皇の軍務を補佐した物部守屋が用明天皇崩御に伴う皇位継承権を巡り、かねてより仏教礼拝の賛否を名目に対立する蘇我馬子と完全に敵対した際、馬子と共に守屋討伐に参加してこれを破る。


推古天皇元年(593)4月10日、推古天皇の儲君(立太子の礼を執行する勅令)を以って皇太子に就くと共に摂政の任を与えられ、馬子と協力しつつ数々の政治改革を推進する。この時、守屋討伐の際に立てた請願を守って四天王寺を建立し、同時に施薬院(薬局)、療病院(総合病院)、悲田院(弱者救済施設)、敬田院(仏教道場)の4つから成る日本最古の総合福祉施設である『四箇院』を併設する。


推古天皇30年(622)2月22日、薨去。享年49。生前の希望に従い、遺骸は河内国石川郡磯長(現在の大阪府南河内郡太子町)に設けられた陵墓『聖徳太子磯長廟』(現在の叡福寺北古墳)に葬られる。


皇極天皇2年(643)12月30日、上宮家として太子の血統を継承した山背大兄王蘇我入鹿を中心とする反勢力の強襲の末に逃亡先の斑鳩寺で一族もろとも自害し、これによって太子の血脈は断絶したとされる。


政策

当時の日本は、6世紀末に統一された王朝や朝鮮半島諸国(新羅、百済、高句麗、任那)との関係を保ちながら大陸の最新文化を積極的に吸収し、その一方で旧来のヤマト王権体制の改革と新たな中央集権体制の安定が求められた時期であり、特に当時の先進国である大陸諸王朝に対して独立国家としての認識を得ることが急務であった。


内政

摂政の任に就いた後、執政に参加する官僚の位階を:徳、:仁、:礼、:信、:義、:智)の6種類、さらに色の濃淡による各位大小の2系統で表し、従来の血統世襲制を廃した官吏位統一制度『冠位十二階』(最高位は濃紫の大徳、最下位は淡黒の小智)を、同時に儒学や仏教の思想を基盤として政務に携わる官僚の道徳を説いた日本最古の規範『十七条憲法』を制定した。


特に仏教には熱心に取り組み、高句麗から渡来した仏恵慈に師事して仏教を修め、法隆寺などの大規模な仏教寺院を次々と建立した。太子が仏教を厚く信仰した一例として、仏教諸経典の中でも特に難解な法華経(ほけきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまぎょう)の三経典について注釈を加えて著した研究書『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)があり、言葉としては十七条憲法第二条の序文「篤敬三寶。三寳者仏法僧也。(篤く三を敬え。三宝とは仏法僧なり。)」(三つの宝を心から敬いなさい。三つの宝とは悟りを開いた仏仏が説いた法法に従う僧である。)、国宝天寿国繍帳』(てんじゅこくしゅうちょう)に記された晩年の言とされる「世間虚仮唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」(この世の全ては虚ろな仮初の姿であり、唯一の真実は仏の教えである。)がある。


しかし、従来の神道を蔑ろにした訳ではなく、儒教書『礼記』に倣った十七条憲法第一条の序文「以和為貴。無忤為宗。(和を以って貴しとなし、忤うこと無きを宗と為よ。)」(調和を尊び、争いを起こさない事が重要である。)による和合の精神を宣言し、これを基礎に推古天皇15年(607)に発布した『敬神の詔』(けいしんのみことのり)の書中で「神道(=根本)を幹、仏教(=信仰)を枝、儒教(=礼節)を葉と成す」の思想を明確に表した事で日本における神仏習合を確立した。


外交

海外使節団『遣隋使』の第二回派遣に際して小野妹子を国使に任じ、隋の第2代皇帝であった煬帝に対して「日出処天子到書日没処天子無恙云云(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云云)」(日が昇る国の皇帝が、日が落ちる国の皇帝に書を送る。お変わりは無いか。云々)で始まる国書を送り、対等の関係を申し入れるという前代未聞の国交交渉を行った。


この国書に対して煬帝が激怒したとされる話は歴史書『隋書』の第81巻に当たる列伝第46巻「東夷」のうちの倭国に関する一節に、前述の「日出処~」に続いて「帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞(帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蠻夷の書、無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ、と。)」(帝はこれを見て不愉快を覚え、鴻臚卿に「今後は蛮夷の無礼な書を見せるな」と言った。)と残されている。


ここで言う無礼とは書中の「天子」を指し、即ち当時の最先端国家たる隋から見て本来であれば臣下の礼を執って然るべき倭国の王、それも未見の地に住む蛮族の首長が皇帝を意味する天子の尊号を国書という最重要文書の書中で軽々しく用い、その上で対等の立場で文言を述べるという非礼極まりない一件に対して激怒したのが真実であり、太陽の出没になぞらえた国の盛衰に激怒したとする通説は類推の域を出ない後世の俗説とされている。


なお、「日出処」「日没処」の文言は般若経の大教典『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)の注釈書『大智度論』に記されている「日出処是東方 日没処是西方」に倣ったものとされており、単に日本から見て西方の地にあるために隋を日没処、逆に隋から見て日本が東方の地にあるために日出処と表現したと考えられている。


逸話

その聡明さと輝かしい功績から数々の逸話が遺されており、中でも10人から一斉に意見を求められても正確に聞き分けて回答する情報処理能力の「豊聡耳」(とよさとみみ、とよとみみ)、あたかも目撃したように未来を詳細に予言する予知能力の「兼知未然(兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」(けんちみぜん)の2つが代表例として挙げられ、特に前者の豊聡耳については厩戸皇子の別称として『古事記』『日本書紀』など多くの古文書に登場する。


しかし、これらの逸話の大半は太子信仰の発生による神格化が起因しており、前述の超人的能力は後世に造作された伝説としての側面も多々あるため、幕末以降は聖徳太子の虚構性が指摘され続けている。虚構論を唱える学説の中には「聖徳太子は架空の人物である」「蘇我王朝が実在した」などの突飛な内容も含まれているが、法隆寺釈迦三尊像の光背に記された銘文が太子の実在を示すとする信憑性などから、これらの学説は学会の少数派に留まっている。


日本が発行する紙幣肖像画としては歴代最多の採用回数を誇り、戦前から昭和59年までの間に流通した紙幣で7回の採用を記録している。また、その大半が最高額面であったために高額紙幣の代名詞として広く認知されていた。


他方では、浄土真宗開祖である親鸞に何度も現れたとされる伝説が遺されており、その1つに「女犯の夢告」(にょぼんのむこく、『御伝鈔』上巻第三段)がある。大きな苦悩を抱えて独り比叡山を下り、聖徳太子を建立の縁起とする頂法寺本堂(六角堂)に篭もって命懸けの百日願行に挑んだ95日目、高僧に姿を変えた救世観音(=聖徳太子の御影)が親鸞の前に現れて「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯(行者宿報にて設い女犯すとも、我玉女の身と成りて犯せられん)」(行者=親鸞がこれまでの因縁により女性と交わりを持つ破戒に直面した時、私が美しい女性となって交わりを被りましょう。)と諭したとされている。


創作における聖徳太子

現在、創作上における聖徳太子像として最も知名度を持つものに『増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和』に登場する聖徳太子がある(他には『日出処の天子』、『爆撃聖徳太子』、日本史学習漫画など)。


  • 図解

センシティブな作品


細身の長身で素肌に上下揃いの青ジャージ、垂纓の冠に刈り上げノーパン主義者という飛鳥時代にはあり得ない人物像を取り、公務を放り出して奇妙な空想や行動を展開しては妹子を始めとする臣下を困惑させ、常に尊大、且つ傲慢に振る舞う割には自身が持つ摂政の権威のみが心の拠り所という小人物であるため、妹子曰く「ダメ上司」、馬子曰く「くさい」など人目を憚らず疎まれる存在であり、史実に残る「仏教を厚く尊ぶ聖人」の姿からはかけ離れた奇人として描かれている。


また、『爆撃聖徳太子』に登場する聖徳太子は抜群の知能と破綻した思考を併せ持ち、豊聡耳によって誰にも知られたくない弱みを掌握しては人々を意のままに操る一方、常に頭の中を駆け巡る無数の声によって半ば精神を病んでいる破滅的な鬼才として描かれているなど、非史実作品における聖徳太子は異能者、あるいは天賦の才を持つがための異端者として描かれる傾向が顕著である。


この他、メタルヒーローシリーズ『世界忍者戦ジライヤ』で巨大武神像『磁雷神』(じらいしん)を建造した人物とされているが、甲冑などの成立期が西暦1000年前後とされる日本において、飛鳥時代にどのような経緯で武者を模した巨大ロボットを建造できたのかは極めて不可解である(戦隊ヒーローに見られる巨大ロボットの建造技術そのものが、現代の科学的見地からしても不可能であるため)。ただし、一部においては「兼知未然による未来知識の取得」を疑問に対する1つの解答として示している


さらに、同人ゲーム東方Project』の第13弾『東方神霊廟』では表向きのラスボスであり、仏教ではなく道教の秘術を修めた上で1400年の時を経て蘇生した尸解仙の身にありながら神仙(=天仙)に等しい格と力を併せ持つ稀有の仙道士『豊聡耳神子』(とよさとみみのみこ)として登場する。


関連イラスト

  • 史実に基づく聖徳太子像

聖徳太子


  • 『ギャグマンガ日和』の聖徳太子像

聖徳太子困ったときは


  • 『日出処の天子』の聖徳太子像

厩戸王子処天


  • 『爆撃聖徳太子』の聖徳太子像

うるさぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!豊聡耳


  • 豊聡耳神子

*特別に両方選ばせてやろう!*神子ちゃん10人の話聞き分けられるんですよね!?聞いてください!


  • 巨大武神像『磁雷神』

XG1弾/磁雷神


関連タグ

歴史 日本史 飛鳥時代

推古天皇 小野妹子 秦河勝 救世観音

ギャグマンガ日和 日出処の天子 東方神霊廟

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