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学生運動の編集履歴

2019-06-19 10:17:19 バージョン

学生運動

がくせいうんどう

学生運動は学生が行う社会運動のこと。主に社会的・政治的な運動を指すものの広義には文化運動も含めることがある。

主に「学生運動」として想起されるのは1960年代後半にピークを迎えた新左翼系の活動であるが、当時は旧左翼系(日本共産党系=民青、社会党系=社青同)、右派系(民族派学生組織)の学生運動も活発に行われ、現在の日本の政治活動家(右派・左派の双方)には運動家歴のある者も少なくない。


台頭と衰退

この運動は特に1968年をピークに、フランスアメリカ合衆国ドイツイタリア日本などで世界的な高揚を見せた。


日本では、1960年の安保闘争、1967年の羽田闘争を皮切りに、1968年から1970年の全共闘運動・大学紛争(学費の値上げなど、大学の体制や制度改革等に対し学生が反対して発生した紛争)に特に盛り上がりを見せた。このことから団塊の世代は「全共闘世代」と呼ばれる事があるが、上述のように旧左翼や民族派として全共闘と対立した学生運動家も多かったほか、団塊の世代の学生の大半は政治とは関わりを持たない学生=ノンポリであった。当時の社会的風潮として学生運動に理解を示す向きが多かったことは事実であるが、それはこの世代に限ったことではない。


新左翼だからといってただ暴れたがりのバカばかりではなく、中には全共闘のように大学の裏口入学などの不正の弾劾や医学部学生のインターン制度(※)反対など、筋の通った主張をした運動もあり、それらの場合は大学側が学生からの謝罪と待遇改善の要求を無視して機動隊に泣きついたため話が拗れてしまったと言える。

大学当局の不正を棚に上げた出動要請には警察内部でも批判が高まった。特に、家庭の事情などで大学進学を断念して警察に入った若い機動隊員は活動家の演説に心を打たれることもあった他、現場の指揮官は学生に負傷者を出さない安全重視の警備計画を立てるなどしていた。

しかし、日本大学のバリケード解除中に、警視庁機動隊の分隊長が学生の落としたコンクリート片を頭部に受け殉職する事態が起きた。これをきっかけに警察内の同情的な声は消え、「もう手加減しない」と敵意を露わにすることになる。


1960年代に一気に膨れ上がった流れは、1969年1月の東大安田講堂事件の敗北をピークに急速に衰退した。

学生運動が勢いをなくした代わりに成田空港建設反対闘争が激化し始め、反対派の指導者が新左翼の受け入れを表明したため、勢力挽回を図る全共闘の残党や各セクトの過激派学生が成田へ流れて行った。その中で開始された土地収用の強制代執行では、新左翼系勢力が過度な暴力を用いて激しく機動隊と衝突。それまで反対派を支援していた旧左翼は離れていった。新左翼の流入で先鋭化した反対派は第二次代執行で機動隊員3名を惨殺し、大衆の間に存在した新左翼への共感は失われた。さらにセクト同士の内ゲバの激化、連合赤軍の山岳ベース事件の発覚によって、左翼や政治運動そのものへの忌避感が広がってしまった。さらに過激派学生が介入した成田空港反対派も、機動隊員殺害をきっかけに新左翼と同等の過激派と見放され、マスコミ世論からあっさり見限られてしまった(旧左翼や土地を守りたかった農民からすればとんだ風評被害である)。


その後も成田空港関連で首を突っ込んだ学生が暴れ回り、1985年に大きな暴動・テロを起こして大人数の逮捕者を出して以降、現在に至るまで下火の状態が続いている。


なお、新左翼と対立関係にあった右派系組織の運動の盛り上がりも新左翼系学生運動の衰退に伴い下火になり、相対的に旧左翼系学生組織が台頭したもののこれも1970年代後半以降徐々に衰退、日本社会の貧困化・右傾化が顕著になった2000年代頃まで「若者の政治離れ」と言われる状態が長く続いていた。


※……医学部の学生は、卒業後に1年間医療機関で実地研修を受けないと医師免許を取得できないという制度。研修中のインターン生には給料が支払われなかったため、医学部学生らが反発し東大紛争に繋がっていく。


活動家

学生運動では、新左翼系・旧左翼系・右派系のいずれも似たような運動手法をとっていた。


運動の中心となるのは学生全体からみれば少数である活動家、あるいは学生運動家と呼ばれる学生である。各党派毎に組織名やシンボルマーク、スローガンを書いた白、赤、黒などのヘルメットを被り、鉄パイプ、ゲバ棒火炎瓶で武装したスタイルが一般的。このスタイルは1967年の10.8羽田闘争で確立した(ちなみに機動隊のシンボルであるジュラルミンの大盾が導入されたのもこの羽田闘争がきっかけ)。


学生が設立した組織)や様々なサークル(社研、すなわち社会研究サークル)などを拠点とし、その中で討論や学習をし、自らの主張を煽動するパンフレット(アジビラ)やポスター、立て看板(タテカン)などを作製し、講義前のクラスや昼休みの広場などで自らの主張や学校や社会における問題など演説やビラの配布やカンパのお願いなどを行った。


全盛期の67〜69年頃は世間も学生運動に理解を示しており、学生がヘルメットを持ってカンパに立つとすぐに一万円札でいっぱいになったと言われる。そうなればデモ授業ボイコット(ストライキ)、大衆団交(学生の連合体との団体交渉)、果てはバリケードによる建物占拠などが行われた。

しかし、市街地での武装闘争では度々暴徒化した学生の乱暴狼藉で周辺の住宅や店舗が被害を被る事も多く、世間全体が学生を支持していたわけではない。カンパの学生に運動を良く思わない一般人が詰め寄り喧嘩になることも少なくなかった他、連行される学生に罵声を浴びせ暴力を振るう者もいたらしい。


しかし、そんな学生活動家も、所詮は世間知らずのガキであった。


「革命」を叫びながら角材や鉄パイプを振り回し警官を攻撃した学生は逮捕されると手のひらを返したように大人しくなり、リンチを恐れて許しを乞う者や、警官にタバコやお菓子をねだる者が多くいた。それを知った当時の警察庁長官後藤田正晴は「革命など起こせるはずない」と確信したという。

東大安田講堂事件でも、火炎瓶や石を投げつけられ何度も死の危険に晒され、仲間を目の前で傷つけられた機動隊員が怒りに燃えながら講堂に突入した途端、籠城していた学生が泣きながら「暴力はやめてください」と叫ぶのを見て呆れ返ってしまったという。

街頭での衝突でも、一般人から「日本が嫌なら出て行け!」等と凄まれ泣きだす学生もいた。


また、対立関係にある学生運動団体同士が、ゲバ棒を片手に暴力的な衝突を繰り返していた。


学生運動家のその後

ところが、これらの運動が挫折したその後、その中でも特に過激な活動を行っていた新左翼系活動家は人生において、様々な困難にぶち当たった。活動をやりすぎて逮捕され退学となったり(安彦良和など)、そうならなくても罰金執行猶予が言い渡され前科がついてしまった彼らは、大学を出ていたにもかかわらず就職活動が周囲より困難になった。また、その挫折感を企業への忠誠心に転嫁し、企業戦士に転じていった者も多いといわれる。


民族派系学生組織に所属していた活動家は、保守系政治家とのパイプを活かし政界入りしたり(井脇ノブ子など)、政商的な実業家(住田良能など)に転じたりした。「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」といった右派系市民団体の中核メンバーの中にも、学生運動家歴のある者(民族派からの継続、新左翼からの転向者の双方)は少なくない。


旧左翼系の学生運動組織で最大だったのは、日本社会党系の社青同であった。彼らは新左翼系学生運動が台頭する中組織は分裂し、新左翼系学生運動の最盛期だった1969年前後には衰退していたが、1970年代に入ると勢力を拡大。1970年代中頃には30%を超える賃上げを実現させるなど労働運動で絶大な影響力を誇ったため財界や保守勢力、および「労資協調路線」を掲げる御用組合に危険視され、1980年代に入ると国鉄分割民営化反対闘争や反核運動で分断され、挫折を味わうことになる。しかし、現在も労働組合活動家や左派系政治家、市民団体やマスコミ関係者の中にはかつて社青同の活動家だった人物は多い。


なお、当時の関係者には元警察官、元学生共に「あそこまでとは行かなくとも、最近はなんだかんだ言っておとなし過ぎるのでもう少し活気が欲しい」と言う者がいるが、彼らの就職が仕事を選ばなければ比較的容易であった当時と異なり、現代では一度でもケチがつくと即就職が困難になる時代故、若者の大半は政治的行動は控えざるをえないという事情もあり、かつての熱気は戻らないだろう。

補足すると、当時の大学は文字通り狭き門であり、大学生は日本の将来を担う有望な人材として期待されていたため、多少の反社会的行為は黙認されていた。しかし、大学が乱立し、誰でも簡単に大学生の肩書を得られるようになった現代ではその考えは過去のものであり、更にインターネットの発達で活動家の氏名や顔写真が容易に確認できるようになった為、企業も保身の為に採用を渋るのである。

しかし中核派系全学連の学生など積極的に活動している学生もいる…のだが、昔のように勢いはなく、市民団体や右翼団体に喧嘩を売っては言い負かされて帰ってくるのが現状である。

現に、かつては機動隊が出動し大規模な封鎖解除警備を行った大学講堂のバリケード封鎖は一般学生や教員によってあっさり解除される始末で、仮に活気を取り戻したとしても支持を得られないのは明白である。


学生運動を描いた作品

いちご白書(ジェームズ・クネンによるノンフィクション。コロンビア大学の学生運動に関して記述され、フィクション映画となった)

『ドリーマーズ』(ギルバート・アデアによる小説、パリ5月革命の設定。ベルナルド・ベルトルッチにより映画化)

『ベルリン、僕らの革命』([ハンス・ワインガルトナーによる[映画]]、設定は現代のドイツであり、当時運動に参加していた人たちが重要人物として登場する)

『サルバドールの朝』(マヌエル・ウエルガによる映画、スペインの反政府活動を行う実在した人物の半生を描く)


関連タグ

資本主義 ナショナリズム 社会主義 共産主義 無政府主義

ゲバ棒 内ゲバ 行動する保守 新左翼 ノンポリ

参照項目

wikipedia:同項目および日本の学生運動

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