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土屋圭市の編集履歴

2020-09-20 21:04:37 バージョン

土屋圭市

つちやけいいち

元レーシングドライバー。現在はARTAのエグゼクティブ・アドバイザー(画像右の人物)および、本田技研工業株式会社(ホンダ)の開発ドライバーとして活動中。

長野県東部町(現・東御市)出身。元走り屋でありながらプロのレーシングドライバーとして大成し、特にドリフト走行を得意としたことから、ドリフトキング( 略してドリキン )の異名を持つ。またメディア活動にも積極的で、頭文字Dの読者を筆頭に、自動車ファンからカルト的人気を誇る。

タレント活動をするレーシングドライバーの元祖とされることもある。


年表

1956年、前述の通り長野県東部町に生まれ、少年時代に当時トップドライバーだった高橋国光のレースを見て以来、車への興味が目覚める。

青年時代は家業の金型工場などで働くうち、その配達で荷重移動を覚えたといわれる。それが高じて走り屋としてを攻めることに目覚める(当時はまだその点で交通法規でも大目に見られていた事情もある)。また現代でいうところの反社会団体との関わりもあったとされる。

ところが、碓氷峠のカーブを100㎞/hオーバーで回ろうとしてガードレールを突き破って転落する事故を起こし、車は廃車、本人も片目の視力を損ねるとともに「モータースポーツにはルールと安全性が必要」という考えに目覚めたという。


また、歌手も目指していたらしく、ヤマハポピュラーソングコンテスト( ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたコンテスト)にエントリーするもレベルの高さに驚き、こちらは断念している。


レーサー時代

 1977年にレーサーとしてデビューし、ヨコハマタイヤの専属レーサーとなった。富士フレッシュマンレースにて1984年にADVANのロゴをつけたトレノAE86クラスで全勝してシリーズチャンピオンを獲得し、さらに格上のスカイラインをも追い回したことから有名になり、JTCおよびJTCCへステップアップした。

ただし順風満帆というわけではなく昭和61年以降に発売されたビデオ「ザ・峠」および「ザ・峠2」に出演したところ、「暴走行為を煽る」などと問題になりビデオは発売禁止処分となり、JAFよりレーサーとしてのライセンスを剥奪されそうになる、という危機もあった(ただし、こちらはモータースポーツ雑誌『Option』創始者かつ、土屋の駆け出し時代からの師匠でもある稲田大二郎氏をはじめとする自動車業界関係者のとりなしもあって、剥奪は回避された)。

 

平成元年から平成4年まで全日本F3選手権にも参戦しているが、ドリフトが全く使えないこともあり、あまり芳しい成績は残せていない。ただし悪天候には強かったとされる。

1994年から2000年まで、世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースに参戦し、1995年にはGT2クラス優勝、1999年には総合でも2位を勝ち取っている。


昭和62年に創刊されたビデオマガジン『Hot Version』(現在は動画配信に移行)の司会を現在まで務め、自動車評論やドライビングの手本を見せるほか、平成2年から20年近くラジオでもパーソナリティを務めるなどで、そのスキルを買われJTCCやル・マン参戦時にはマシンに無線機を積み視聴者にレースの状況を実況する、ということもやっている。

 

2000年にレーシック手術( 角膜にレーザーを当て屈折率を変えることにより近視を矯正する手術 )を受けるも、レースの環境の変化などを受け、2003年に現役を引退する。


引退後

それまで所属していたARTAのチーム運営にかかわり、監督として活躍した。


引退前から立ち上げていた『全日本プロドリフト選手権』(D1グランプリ)を推し進めていたが、運営との亀裂が生まれたことによりこの運営会社の取締役を辞任、新たな競技団体である株式会社ドリフトエンタープライズおよび『ドリフトマッスル』を開始。


また、ARTA時代から関わりのあったホンダの開発ドライバーとしても活動しており、ホンダ純正のカスタマイズパーツブランド「Modulo(モデューロ)」のパーツ・車両開発に携わっている。


その他、ラジオのパーソナリティほか、芸能活動も引き続き行っている。


『頭文字D』との関わり

1995年に連載開始した漫画「頭文字D」を当時自分がパーソナリティを務めていたラジオ『サウンドコックピット』にて絶賛したことにより、その後1997年に雑誌の対談にて作者しげの秀一氏との交流が始まる。


1998年に放送開始したアニメ版においてバトルシーンの監修(この監修はしげのの推薦もあった)を務め、「First Stage」およびドラマCD「ドリキン青春グラフィティー」では声優としてカメオ出演もしており、アニメ版での土屋は主人公・藤原拓海の父である藤原文太の旧友という設定である。


出演声優との交流では三木眞一郎岩田光央子安武人と同乗走行をしたことがあり、とりわけ三木とは親交が深く、ステアリングを授けるほか、アーケード版『頭文字D Arcade Stage』で対決することもあった。


トヨタ・AE86との関わり

現役時代に搭乗していたトヨタ・AE86の出来を「ドライバーを育ててくれる車」として絶賛しており、自身もAE86トレノを愛車の一つとして長く乗り続けている。この車両は自身がパーソナリティを務める「Hot Version」でも多用され、同企画でボディのリフレッシュと補強が施されている。当初は「峠最強伝説」の200クラスのラスボスとして後方からカメラカーとして追走していたが、進化し続けるチューニングカーには遠く及ばず、マメにされてしまった。(当時本人は「勝負になんない」と漏らしている)その後、2012年にチューニングショップ「テックアート」によるチューニングが施され、7A-G仕様、1800CCエンジンとなり、最大出力は215psとなり現代でも通用するような性能を得ている。しかし、一番弟子でもある織戸学や後輩の谷口信輝からは相変わらずバカにされ、「マメ号」という名前もこのときにつけられた、しかしその後は結果をきちんと残したことから若干ランクアップして「スーパーマメ号」とも呼ばれている。ナンバープレートがつけられた車検対応車であるため、公道走行も全く問題ない。その他の愛車はホンダ・NSX-R、トヨタ・86など。


関連項目

レーサー ドリフト

走り屋

頭文字D - 自ら絶賛した漫画作品で、アニメ版では監修をつとめた。

藤原文太 - 『頭文字D』の登場人物で、走り屋時代からの旧友の一人の設定。

参照

wikipedia:同項目

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