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織田秀信の編集履歴

2021-06-12 13:23:19 バージョン

織田秀信

おだひでのぶ

織田秀信とは、戦国時代の武将である。織田信忠の長男で、のち織田家当主。生誕年1580、死没年1605?

生涯


織田信忠の長男として1580年に誕生する。母は清和源氏の血を引く塩川氏の娘とも、森可成の娘とも、松姫とも、進藤氏の娘とも言われる。

父親である織田信忠が正室を持っていなかったため、本来は織田信長の庶兄である織田信広と同じ、庶長子と呼ばれる存在で、織田宗家の家督を継がない可能性も存在したが1582年、本能寺の変で祖父である織田信長と実父の織田信忠が亡くなったため、その後の清洲会議では織田家当主に就任することになる。


しかし、当時数え年にして3歳であり、実権は守役とされる堀秀政、名代とされた織田信孝、そして織田信雄羽柴秀吉柴田勝家池田恒興丹羽長秀などの織田家重臣、そして織田家同盟者である徳川家康に任せる他なかったのである。


そのため、織田家当主としての権力は脆弱であり、実際に1582年の10月20日には羽柴秀吉池田恒興丹羽長秀の3者で織田信雄を代理当主に就任する動きが行われ、家臣の石川数正を通じて事態を把握した徳川家康がそれに賛成するなど既に織田信雄織田信孝の対立に端を発した織田家の主導権争いが表面化していた。

当時織田秀信は信孝のいる岐阜城に存在していたが、織田信雄羽柴秀吉らの軍事行動により清洲会議の取決めを断行され、安土城二の丸へと移された。


その後、賤ヶ岳の戦いを経て、織田家の当主権力を回復しつつあった織田秀信であったが羽柴秀吉織田秀勝らと織田信雄徳川家康らの主導権争いである小牧・長久手の戦いが行われ、織田秀信は防衛体制の整わない安土城から坂本城へ移された。その後、秀吉が関白職と豊臣姓を賜り豊臣秀吉となると、

信長一代で築き上げた織田家の基盤そのものが形骸化し、朝廷公認となる豊臣氏体制が発足され、織田家当主である秀信が、歴史の表舞台に立たないまま織田家が衰退していくことになった。


しかし、権力なくとも権威ありの織田家を流石に見過ごすわけにはいかず、1588年には9歳で元服、朝廷からも従四位侍従の官職に任命され、織田三郎侍従秀信として豊臣政権でも重要な役割を果たしている。(余談であるが、この従四位侍従の官位はその後、従兄弟の織田高長にも引き継がれ、江戸時代の織田家藩主もそのまま引き継いでいる。)


1592年に豊臣秀勝が朝鮮で病没すると、その遺領の一部である美濃岐阜を引き継いだ。

翌年には朝鮮へも出陣し、帰国後従三位大納言の官位に任命される。以降「岐阜中納言」、「羽柴中納言」と名乗った。従三位大納言の官位は徳川家康前田利家に次ぐものであり、豊臣政権の中核として、1594年の唐入りに対する和睦の席でも家康、利家と揃って同席している。

豊臣秀次とも関係を厚くしていたが、秀次事件には連座せず、またこの頃領内で鵜飼いや寺院の保護も推奨し、祖父である織田信長の政策を引き継いだ。


1598年に豊臣秀吉が死去すると、キリシタン大名としての側面をより強くし、領内でもキリスト教を保護するなどの政策を取っている。

1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、東軍の先鋒隊と救援のないまま孤軍奮闘をつづけた。しかし多勢に無勢であり、また前岐阜城主の池田輝政が相手にいたことから、最終的には降伏。戦後西軍の主要格として改易され、高野山に流された。

この際家臣1人1人の感状を書き連ね、それを見た福島正則が感激したという逸話が伝わる。


高野山に配流されるも、祖父である織田信長が高野山と対立したこともあって終始関係はうまくいかず、やがて1605年に下山したと言われる。

これ以降史料に織田秀信の名は見えず、高野山で気を病み亡くなったとも、高野山を下山した後、地元の豪族に庇護されそこで根付き長生きしたとも言われる。


ちなみに子孫もおり、秀信の妻の西山性を名乗っている。


弟に織田秀則津田忠信らがいるが、彼らも歴史の表舞台から徐々にフェードアウトした。


各メディアにおける織田秀信

信長の野望シリーズ

戦国群雄伝より初登場。シリーズを追う事にステータスは弱体化し、しかも1595年元服及び1605年没扱い(しかも病死)の為に大名として登場してる期間は約10年間しか無い。(1600年の関ヶ原に至っては約5年しか無いので注意)


シナリオやイベント「本能寺の変」の結果次第で3歳で大名を務める事が多い。


戦国無双

武器:刀剣 声:岡本寛志(2) 宮坂俊蔵(特殊セリフ時は神谷浩史)(3Emp)


「織田信長が嫡孫・三法師秀信、参ろうぞ」(3Emp特殊セリフ)


関連項目

織田信長 織田信忠

織田信雄 織田信孝

織田長益 豊臣秀吉

徳川家康 前田利家

池田恒興 堀秀政

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