誘導
- 日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬(90世代)。未だ「史上最強のステイヤー」との呼び声も高い名馬である。
- 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→メジロマックイーン(ウマ娘)
こちらでは1に関して解説をする。2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。
概要
※この記事では、馬齢表記に旧表記を用います。現表記では、記述されている年齢より1つ下となります。
生年月日 | 1987年4月3日 |
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死没 | 2006年4月3日 |
英字表記 | Mejiro McQueen |
性別 | 牡 |
毛色 | 芦毛 |
父 | メジロティターン |
母 | メジロオーロラ |
母の父 | リマンド |
5代内のインブリード | なし |
競走成績 | 21戦12勝 |
管理調教師 | 池江泰郎 |
生産 | 吉田堅 |
馬主 | メジロ商事(株) |
誕生~4歳時代
1987年4月、北海道の早田堅牧場で誕生。離乳後メジロ牧場に移動。
父は天皇賞をレコードタイムで制したメジロティターン、母メジロオーロラ、母の父がリマンドという血統だった。
祖父メジロアサマは受胎率が極端に低く、数少ない産駒からアサマと同じく天皇賞を制したのがメジロティターンであり、メジロ牧場総帥北野豊吉は死の直前「ティターンの子で天皇賞を取れ」との遺言を残し逝去。
同期には宝塚記念を制したメジロライアン、春秋グランプリ連覇を果たしたメジロパーマーと、後のグランプリホースが2頭も存在している。
3歳になり、メジロマックイーンは栗東の池江泰郎厩舎に入厩した。
体重が500kgを超える大型馬であった事に加えて骨膜炎を発症してしまい、なかなか仕上がらなかった。
そのため、デビューはやや遅れて翌年2月の4歳新馬戦に。
デビュー戦は村本善之を鞍上にオギノレジェンドを1と3/4馬身差で制し、優勝。見事にデビュー勝ちを飾った。
その後500万下特別のゆきやなぎ賞に出走するも2着。
以降2戦するも、それぞれ2着と3着に敗れた。
5戦目となる木古内特別でやっと勝利し、連闘となった900万下特別の大沼ステークスも勝利した。
この時点で、陣営は目標をクラシック競走の菊花賞に定める。
前哨戦として1500万下特別の嵐山ステークスに出走したが、鞍上の内田浩一騎手が直線で進路を失うミスをしてしまい2着。
あやうく賞金不足で出走出来なくなるところだったが、何とか菊花賞へ出走する事が出来た。
菊花賞
メジロマックイーンにとって初重賞にして、初GIとなった菊花賞。
前走での騎乗ミスから鞍上がどうなるかが心配されていたが、馬主のメジロ商事会長・北野ミヤの取り計らいによって、引き続き内田騎手が騎乗する事となった。
このレースには同期のメジロライアンも出走しており、単勝オッズ2.2倍の1番人気。
対するマックイーンは単勝オッズ7.8倍の4番人気だった。
そして始まったレース。メジロマックイーンは先行策をとり、第4コーナーで先頭に立った。
そのまま後続を抑え、ゴールイン。2着のホワイトストーンに1と1/4馬身差をつけての勝利であった。なお、1番人気のメジロライアンは3着。
実況の杉本清アナは「メジロでもマックイーンの方だ!」と叫んでいた。
念願のGIタイトルを手に入れたマックイーン、親子3代GI制覇達成、夏の上り馬となった。
しかし、年末の有馬記念は馬主の「有馬はライアンにとらせてやりたい」との意向によって回避、休養に入った。
ちなみにその有馬記念で、メジロライアンはオグリキャップに敗れ2着だった。
古馬時代
5歳時代
マックイーンの年明け初戦は、GII阪神大賞典。
鞍上は武豊騎手に乗り代わり、以降現役引退まで武騎手が騎乗する事となる。
このレースも勝利し、マックイーンはいよいよ、大目標であったGI天皇賞(春)に出走する。
天皇賞(春)
4月28日、いよいよ第103回天皇賞(春)の発走時刻が近づいてきていた。
同期のメジロパーマーとメジロライアン、菊花賞で抑えたホワイトストーンなど、懐かしの面子が揃い踏み。
メジロマックイーンは、単勝オッズ1.7倍の1番人気だった。
またこのレースでは、メジロ牧場の悲願であるメジロアサマ、メジロティターンに続く父仔3代にわたる天皇賞制覇という偉業達成がかかっていた。
そして、始まったレース。マックイーンはいつも通りの先行策をとった。
そのまま直線で抜け出し、ミスターアダムスに2馬身半の差をつけゴールイン。見事に春の盾を手中に収めると同時に、1984年に死去したメジロの前総帥であった北野豊吉の悲願でもあった父仔3代にわたる天皇賞制覇を成し遂げた。
勝利後の記念撮影では、鞍上の武豊騎手が北野前総帥の遺影を掲げての撮影となった。
その後、マックイーンはグランプリレース宝塚記念に出走。単勝オッズ1.4倍の絶大な支持を集めたが、直線でメジロライアンをとらえきれず、2着に敗れる。
メジロライアンが、生涯で唯一マックイーンを下したレースとなった。
その後しばらく休養したマックイーンは、春秋天皇賞連覇を達成するため、天皇賞(秋)へと向かった。
天皇賞(秋)
前走のGII京都大賞典を快勝したマックイーンは、予定通り天皇賞(秋)へと向かった。
何と言っても、春秋天皇賞連覇のかかったレース。
陣営も、ファンも、マックイーンの勝利を望んでいた事だろう。
そしてレースがスタート。好スタートを切ったマックイーンは内側に進路をとり、レースを進めた。
そして、2番手のプレクラスニーに6馬身もの差をつけて1着入線。
マックイーンの圧勝であり、見事春秋天皇賞連覇の偉業を果たした………はずだった。
レース後、掲示板には審議を知らせる青ランプが点灯した。
競馬では、レース中に馬の進路が妨害されたり、一歩間違えば大事故につながりかねないような危険なレースがされた時など、レース結果に疑問がある場合に審議がなされ、悪質な場合は降着や失格などの処分が下される事になる。
そして、審議の結果が知らされた。その内容は……
「メジロマックイーン号は、進路妨害により18着に降着」 |
という、衝撃的なものであった。
スタート後に内側へ進路をとったマックイーンだったが、この時内枠の馬たちもインを突こうとしていた。そのため、煽りを受けたプレジデントシチー等の進路が狭まり、馬群が混乱していたのである。
結果として、レースは2着入線のプレクラスニーが繰り上げ1着。
GIレースにおいて、1着の馬が審議降着となったのはこれが史上初である。
誰も予想だにしなかった結末に、東京競馬場は騒然となった。
その後、マックイーンはジャパンカップに参戦するも4着。
暮れのグランプリ有馬記念でも、「これはビックリダイユウサク!」の名(?)実況と共にすっ飛んできたダイユウサクに交わされ2着に敗れた。ナイスネイチャ?3着だったよ。
秋は調子を落としたものの、その実力が評価され、1991年のJRA最優秀5歳以上牡馬に選出された。
6歳時代
そして、年が明けて6歳となったマックイーンは、再び阪神大賞典へ。秋の不調はどこへやら、2着に5馬身差をつけての圧勝であった。
そして、その勢いのまま天皇賞(春)へ出走。
2冠馬トウカイテイオー、有馬記念でまさかの勝利を果たしたダイユウサク、同期のメジロパーマーなどの強敵を相手に、最強ステイヤーの意地を見せつけ1着。
天皇賞(春)連覇の偉業を成し遂げた。ちなみに、鞍上の武豊はこの勝利で天皇賞(春)4連覇を果たした。
しかし、絶好調だったマックイーンに悲劇が訪れる。
宝塚記念に向けての調整中に左前脚を骨折してしまったのだ。
幸い一命は取り留めたものの怪我は重く、1年近くの期間を治療と休養に充てる事となった。
7歳時代
それから1年後、無事に復帰したマックイーンはGII大阪杯に出走。
1年ものブランクを感じさせず、5馬身差で完勝した。
その後、マックイーンは天皇賞(春)3連覇をめざして3度目の出走を行う。単勝オッズは1.6倍の1番人気。
レースではある1頭の馬にマークされながらも先行策をとる。
最後の直線で先頭に立ち、そのまま3連覇の偉業へ一直線に向かっていった。
が、ここで日本競馬史上最高の「ヒール」として名を馳せた馬が立ちはだかった。
前年、ミホノブルボンの3冠を阻んだ菊花賞馬ライスシャワーが、マックイーンを強襲したのである。
ライスシャワーのマークは功を奏し、先頭でゴール板を駆け抜けたのはライスシャワーの方だった。
メジロマックイーンはライスシャワーに2馬身半の差をつけられ、2着に敗れてしまったのである。
しかしながら、次走のGI宝塚記念ではキッチリ1着、史上初の4年連続GI制覇を達成。
そして、秋のGII京都大賞典でも、レガシーワールドに3馬身半の差をつけて完勝。
獲得賞金も10億円を突破し、さらなる活躍も期待されただろう。
しかし、天皇賞(秋)を4日後に控えたある日、メジロマックイーンは左前脚部繋靭帯炎を発症してしまう。
マックイーンはそのまま引退、種牡馬入りが発表される。
引退式は11月21日、京都競馬場で催された。こうして、史上最強のステイヤーはターフを去っていった。
トウカイテイオー・ミホノブルボン・ライスシャワーなど、年下世代の強豪馬が表れても現役最強という称号は長きにわたりマックイーンの物であった。
先行抜け出し型の優等生的なレース運びで地味で強すぎてつまらないと言われる事が多々あった、この辺りはシンボリルドルフやテイエムオペラオーと同様である。
なので現役時代はホワイトストーン・メジロライアン・トウカイテイオー・ミホノブルボンらの方が人気があった。
種牡馬生活
総額7億2000万円のシンジケートが組まれたマックイーンは、社台スタリオンステーションで繁殖生活を始めた。
当時の主流血統だったノーザンダンサーなどの血を持っていなかったマックイーンは種付けがしやすい種牡馬であり、生産者にも好まれた。
しかし、重賞勝ち馬こそ輩出できたものの、結局産駒からGIウィナーは現れなかった。
そして2006年4月、現役種牡馬のまま社台スタリオンステーション荻伏で心不全のため急逝した。
享年20歳(現表記19歳)だった。
2012年に産駒のホクトスルタンが予後不良となってしまい、競走馬登録を抹消されたため、現在JRA所属馬に彼の産駒は存在していない。なお、名馬としては珍しい生没同日の馬である。
彼の後継種牡馬は2020年現在はギンザグリングラスのみであり、種付け数も少ないことから現状のままでは1966年生まれのメジロアサマから続く日本最古のサイアーライン(※2009年にシンザン系が断絶したため)は途絶えてしまう事となる。
それどころか、日本における三大父系の1つヘロド系は同じパーソロン系であるトウカイテイオーの子クワイトファインしかおらず、この2頭の子が成績を残さない限り、日本におけるヘロド系は途絶えてしまう状況である。
しかし、現在はブルードメアサイアー(競走馬の母の父)として、にわかに注目を集めている。
サンデーサイレンス系のステイゴールドとの相性が良く、3冠馬オルフェーヴルを筆頭に、その全兄(父母が同じ)で宝塚記念有馬記念連覇のドリームジャーニー、芦毛の馬の獲得賞金額を更新し、史上初の宝塚記念2連覇を含む、GI6勝を果たしたゴールドシップなどがこの配合。そのため、この配合は両馬の名前からとって「ステマ配合」というあだ名がついている。このためマックイーンを父に持つ牝馬の需要が一気に高まったりしている(ただしゴールドシップ以降はこれといった活躍馬は出ていない)。
マックイーンの死から5年後の2011年、彼をはじめとする名馬たちが盛り立てたメジロ牧場は成績不振などを理由に解散。
メジロの冠名も、現役馬の引退と共に競馬界から消える事となる。
しかし、現代でメジロの名が消えても、メジロの名を持つ馬の成績は残り続ける。
一時代を築いた「史上最強のステイヤー」メジロマックイーン。
「メジロ」の名は、彼の偉業と共にいつまでも残り続ける事だろう。
余談
- 天皇賞(秋)での降着事件では、武騎手とマックイーンを擁護する意見もある。
- 当時の東京芝2000mのコースは、スタート後すぐに曲線が存在していたため、外枠の馬が先行しようとするとどうしても斜行する事になり、馬群が混乱してしまう危険性を孕んだコースだったのである。(実際、一部の騎手からはコース体系に関する批判も噴出していた。)
- 現在はスタート後に100mの直線区間が設けられたものの、100mはサラブレッドなら数秒で通過してしまう距離であり、依然問題は解決していない。枠によってほぼ結果が決まってしまうようなコースはGⅠに相応しくないとの意見も出ている。
- また、このレースで繰り上げ1着のプレクラスニーもメジロマックイーンにつられて内へ向かっており、直接の原因はマックイーンではなくプレクラスニーの騎乗にあるという声もある。
- 天皇賞(秋)の降着事件の際、武騎手はまだ審議中なのにも関わらずウイニングランを行った。ガッツポーズやゴーグルを観客席に投げ入れるなどのパフォーマンスも行っており、1着を確信していたのがうかがえる。
- ちなみにこの時、先輩騎手の柴田政人は審議の対象がマックイーンである事を察しており、武に「ウイニングランはやるな」と釘を刺していた。
- なお、武騎手は事情聴取の際に進路妨害を否定していたが、パトロールビデオを見せられると押し黙ってしまったという。
- レースや競馬場等の「舞台上」では落ち着いておりしっかりしていたが、牧場や厩舎等の関係者しかいない場所ではかなりのヤンチャで通っていたようだ。しかし、当時はインターネットも普及していないような時代。外面は良かったマックイーンのそんな一面は話しても全然信じてもらえなかったらしい。
- 武騎手はじめ各関係者からは「年を取るほどに気性が悪くなっていった」という。実際、ライスに惜敗した93年の天皇賞(春)の際もゲートの前でソワソワした様子を見せゲート入りを嫌がりスタートが遅れそうになるアクシデントを引き起こしたが知られているが、その他にもレース出走や調教を嫌がったり、人間の言うことを聞かなくなったりすることが増えていたとのこと。ちなみに、引退後に武騎手が顔を見せに行った際は「また走らされる」とでも思ったのか見つけた瞬間速攻で逃げたらしい。
比翼の友、サンデーサイレンス
メジロマックイーンが種牡馬として社台スタリオンステーションに繋養されていた時、マックイーンはサンデーサイレンスと仲が良かったという。
サンデーサイレンスは当時、非常に気性が荒いことで有名だった。
マックイーンとサンデーは放牧地が隣り合っていたが、当初サンデーはマックイーンを見るたびに威嚇していた。
これに対してマックイーンは無視を決め込んでいたが、後にサンデーはマックイーンの前では態度を軟化させるようになり、最終的には非常に仲が良くなったという。コレナンテツンデレ?
あまりの仲の良さに、関係者は「恋人」とまで言っていた程である。
事実2頭が柵越しに見つめ合っている写真があるほか、マックイーンの現役時代に調教助手を務め、引退後も何度もマックイーンに会いに行った池江泰寿調教師も「サンデーはマックイーンが大好きだった」と証言している。
サンデーは放牧地に入ってくると、マックイーンが隣にいてもまずは放牧地を走り回るが、マックイーンは釣られて騒いだりはせず、のんびり草を食べていて、しばらくすると『お前、何を騒いでいるんだよ』といった感じでサンデーへ寄っていく。するとサンデーも落ち着いて、あとは二頭でスーッと歩いていったという。(出典:黄金の旅路 人智を超えた馬・ステイゴールドの物語)
また、サンデーはマックイーンより先に放牧されると、『アイツはどうした?』とばかりに暴れてしまうので、二頭の放牧の順番はいつもマックイーンが先と決められていたそうだ。(出典:同上)
サンデーとマックイーンが一緒に放牧地を走る際には、マックイーンが左回りの時は、サンデーは右回りといったように必ず一点で顔が合うという周り方をしており、バッタリと顔を合わすと立ち止まり、また走るといったことを繰り返していたという。
…そんな2頭の相性の良さが後々血統でも証明されるのは、実に奇妙と言えるだろう。(ステマ配合が有名であるほか、メジロマックイーン産駒の賞金1位・2位は母父サンデーサイレンスである。また、2013年の有馬記念の1着・3着・4着はいずれも父父サンデーサイレンス・母父メジロマックイーンである。)
ちなみに、サンデーサイレンスの死後は彼の産駒の1頭であるロサード(牡)に慕われていたとの事。
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主演作12本。(ヒーロー列伝No.34)
名優。人はメジロマックイーンをそう呼んだ。
名前が同じだから、という理由だけではない。
力強く、華麗にターフを駆ける姿が、
ハリウッドの大スターと重なって見えたからだ。
たぐいまれなるスピードをもつステイヤーは、
父子三代の天皇賞制覇、そして自身も2年連続
その栄冠に輝く偉業を達成する。
通算成績21戦12勝。つねに主役であることを求められ、
観客に夢と感動をあたえつづけてくれたスターホースであった。
20th_Century_Boy
'91年、天皇賞(春)。
メジロマックイーン、父子三代制覇。
絶対の強さは、時に人を退屈させる。
この座は譲れない(名馬の肖像2019年天皇賞(春))
聞こえてきたのは
退陣を迫る民たちの声
帝位を狙う若き勇者の足音
だが私の中ではプライドが
まだ燃え続けていた
この座を守るために
もう信頼に背くまいと
心に固く誓った
その証がこれだ
天まで駆け昇る我が姿だ