概要
かつては濱松城と表記していた。
15世紀頃に築かれた引間城が前身とされる(曳馬城、曳間城、引馬城とも表記される)。この城は尾張の斯波氏と駿河の今川氏との抗争の中で戦略上の拠点となり、斯波氏方の巨海氏や大河内氏、今川方の飯尾氏が城主を務めた。
元亀元年(1570年)、遠江に進出した徳川家康は岡崎城から引間城に居城を移し、浜松城と城名を改め武田信玄に対する前線基地として引間城を組み込む形で築城工事を始めた。
当初は遠江国の守護所が置かれ政治や商業の中心地となっていた見付(現在の磐田市)に拠点となる城之崎城の築城を始めたが、武田軍の侵攻を受けた場合、天竜川によって西への退路が断たれるなど戦略上の問題を抱えていることから城普請を中断しこの地に変更したという。
当時は自然の地形を利用した土塁や堀からなる土造りの城だったと考えられている(ただし、一部に家康時代のものと思われる石垣も確認されている)。
城の工事は天正10年(1582年)頃まで続いたが、そのわずか4年後の天正14年(1586年)、駿府城に本拠を移すことになる。
これは天正13年(1585年)に石川数正が出奔して当時、対立していた豊臣秀吉に帰属する事件が発生。重臣だった数正は浜松城や徳川家の軍事機密を知り尽くしていため、拠点を移さざるを得なかったとされる。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると秀吉の重臣である堀尾吉晴が城主となり、浜松城は近世城郭として築城し直され高い石垣や瓦葺建物、天守が築造された。
関ヶ原の戦いの後、一時は徳川頼宣領となるがその後、浜松藩の拠点として江戸時代を通じ、徳川譜代の大名が入れ替わり城主を務めた。
歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた(しかし不祥事を起こし左遷された藩主もいる)。
天保の改革で知られる水野忠邦は唐津藩主時代に昇格のため願い出て浜松藩主となり後に老中になったという。
江戸時代の265年の間で浜松藩の藩主は22人おり、平均約12年弱の期間に藩主が変わっている。
明治時代の廃城令により建物や土地の払い下げが行われ城郭の大部分は破壊され宅地化が進んだが、戦後に開発を免れた天守曲輪と本丸の一部が浜松城公園として整備され、昭和33年(1958年)に天守が再建された。
2017年には続100名城に選定されている。
作品等
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CV:井上麻里奈
CV:大西沙織