『重戦闘機』として
日本陸軍ではノモンハンの戦訓から『一撃離脱の得意な戦闘機』を重戦闘機と決めており、
これはソビエトの「ポリカルポフ I-16」に苦戦させられた経験による。
当時の主力戦闘機である九七式戦闘機では、急降下して逃げるI-16に追いつけなかったのだ。
この戦闘機も一式戦闘機が不採用になった時のための保険として開発されており、
型番も「キ44」と連番になっている。
本来はどちらも一撃離脱を得意とする重戦闘機として開発されていたのだが、
一式戦闘機では軽戦闘機に近くなっている。
(軽戦闘機=格闘戦を得意とする戦闘機)
前述のとおり、本来は「保険」として開発されていたので、実験的な試みが多くなされている。
エンジンは当時手に入る最大出力のものを採用しており、
機首以降は胴体を急激に絞り込んで空気抵抗を抑えることに成功している。
搭載された「ハ41」エンジンは元々爆撃機用のエンジンで、
当時の零戦や一式戦闘機の「栄(ハ115)」を上回る1260馬力を発揮する。
これに短い主翼を組み合わせ、日本機としては珍しく一撃離脱の得意な戦闘機に仕上がった。
機銃は零戦に搭載された20㎜機銃と同系統のものを搭載する予定だったのだが、
調達のメドが立たなかったので、12.7㎜機銃(アメリカ製M2 のコピー)を搭載した。
これはオリジナルには無い強力な弾薬を使えるものの、
もはや「重戦闘機」と呼べるほどの重武装ではなくなっている。
一式戦闘機で着脱式にされた防弾版だったが、二式単座戦闘機では標準装備となっている。
13㎜の防弾版がコクピット後方に張られており、この重量は60kgにもなる。
ただし、のちのアメリカの調査では「これでは不十分」と判定された。
なお、二式戦闘機には「キ45 二式複座戦闘機(二式複戦)」もあり、
特に区別する時は「二式単戦」とも呼ばれる。
一番の苦難
一撃離脱に特化した本機は、採用が危ぶまれていた。
開発当時は戦闘機といえば旋回格闘戦が普通であり、
当時のパイロット達からは「使いにくい」と不満が寄せられたのだ。
たしかに、低い垂直尾翼などは離着陸での安定性を犠牲にしており、高速性能のために翼面荷重も高く設計されている。翼面荷重が高いという事は離着陸での安定も悪いという事でもあり、離着陸のむずかしさに拍車をかけている。
おおよそ格闘戦には向かない戦闘機であり、ここがパイロット達から嫌われたのだ。
(日本の戦闘機にしては)操縦も難しく、「暴れ馬」だの「殺人機」だのと呼ばれている。
採用されたのはひとえに『Bf109との模擬戦の結果が良かったから』で、
機体と共に来日したドイツ人パイロットの高い評価に、
陸軍の「ドイツかぶれ」が乗っかる形で採用が決定されたようなものである。
(でなければ即不採用だったのは明らか)
実戦へ
最初の実戦配備は独立飛行47戦隊で、現在のベトナムやインドネシア、ミャンマーで活躍している。
しかし、一式戦闘機を装備した64戦隊に比べると、その活躍は地味だった。
燃料の搭載量が少なく、航続距離も短かったのが原因である。
1942年の「ドーリットル空襲」で東京が空襲され、
先の47戦隊を始めとする二式単戦を装備する部隊は、本土へ呼び戻された。
同12月に二式単戦も強化が施され、新型のパワーアップエンジン「ハ109」(1450馬力)を装備して二型へと進化している。
武装は基本的に一型と同様だが、二型乙はオプション武装として40㎜機銃(ホ301)を装備できる。
これは厳密にはグレネードランチャーに分類されるもので、
大口径で破壊力があり、その上反動も小さいという長所があった。
しかし集弾性能が悪くて弾速も遅く、総弾数も少なかった。(わずか8発)
従って射撃の際は『照準器からはみ出る位まで近づいて撃つ』事が必要とされた。
高速で接近するなかで敵の銃火に怯まず、
なおかつ一撃にかけて一瞬のチャンスを逃さない技量・度胸が求められるのだ。
こんな芸当ができるのは相当なベテランに限られ、
扱いきれるのは上坊良太郎大尉のような、ほんの一部のパイロットだけだった。
(ちなみにホ301も『当たるか外すかしか無い、ひとえにヤクザな武器』と評されている)
武装
主翼内に7.7㎜機銃を左右それぞれ1門ずつ装備する。
胴体に強力な機銃を装備するが、予定されていた20mm機銃は用意できなかった。
代わりに装備されたのは「ホ103」という、M2機銃のコピー品である。
独自の仕様として、本家にはない強力な炸裂弾を使う事もできる。
この機銃は日本陸軍の戦闘機だけでなく、爆撃機の旋回機銃にも使われた。
戦闘機では一式戦闘機や二式複座戦闘機、三式戦闘機や四式戦闘機、五式戦闘機
(つまり全ての戦闘機)
に装備され、日本陸軍後期の標準型航空機銃である。
一型甲・二型甲は上記のように12.7㎜機銃2門に7.7㎜機銃2門、
一型乙・二型丙では12.7㎜機銃が4門となって増強されている。
二型乙は胴体の12.7㎜機銃2門だけだが、主翼に40㎜機銃を装備する事もできる。
必ずしも脆弱な武装ではないのだが、B-29が相手では分が悪かった。
B-29は排気タービンに関連した火災が多かったが、
自動消火装置などの防火装備も充実していたのだ。
対『空の要塞』
一撃離脱向きに設計された二式単戦は格闘戦には向かず、
『ドーリットル空襲』の後、本土へと呼び戻された。
速度性能に優れ、一撃の火力にも長けていた二式単戦は、
対爆撃機用の迎撃機として使われる事になった。
相手は当時の最新爆撃機「B-29」。
高速で重防御のB-29は、二式単戦の能力をもってしても困難な相手だった。
銃撃しても簡単に火が付かないのだ。
また、相手が高高度とあっては攻撃のチャンスも少なく、
一度攻撃したら、次の機会に恵まれる事はまず無かったという。
二式単戦に限らないが、攻撃の際は『左主翼の根本を狙う事』と決められていた。
これは「酸素ボンベの置き場は左主翼の根本」とされていた事によるが、
実際には胴体全体に分散して配置されており、
ここを撃ったからといって酸素ボンベを破壊できる訳ではない。
ただし、主翼の付け根は機体の重量がすべて係っている箇所であり、
破壊すれば主翼が真っ二つに折れて墜落することは必至である。
そこからすれば、主翼の付け根を狙う事は合理的である。
また、機首にはすべての操縦系統が集中しており、
コクピットを破壊できれば確実に撃墜できる。
両方を一度に狙えるこの方式は、至って合理的と言うことが出来るだろう。
評価について
『若手は乗せられない』として危険視されていた二式単戦だったが、
実のところ、そうとも限らなかった。
経験の浅いパイロットでも、戦果を挙げる事例が続発したのだ。
高めに設定された翼面荷重だが、それは『あくまで日本機としては』という但し書きがつく。
つまり、諸外国の機と比べるとそこまで高くなかったのだ。
これをむしろ『急降下が得意で、高速になっても怖くない』と評価するベテランも居た。
同時期に配備された一式戦闘機よりも火力で勝り、また防弾もしっかりしていた。
最大速度も600km/hを超えていて、射撃時の安定もよく、
頑丈な機体と共に好まれる戦闘機でもあった。
時代の潮流も一撃離脱戦法に傾いており、二式単戦には追い風になろうとしていた。
だが上層部の理解を得る事まではできず、また二型の新型エンジンは不調も多かった。
結局、生産も四式戦闘機に統合されるように1944年末には終了した。
翼面荷重
『主翼の面積あたり、どれくらいの機体重量を支えているか』という指数であり、
一例としては荷重が低いと旋回性能が高く、荷重が高いと高速性能が重視となる。
日本だけ? いいえ、海軍だけです。
なお、このような風潮を「日本の軽戦闘機偏重」として批判する向きもあるが、
日本だけが批判される理由にはあたらない。
問題があったとすれば、それは『いかに成功体験から脱却すべきか』という点である。
この点、日本陸軍は二式単戦で悪評を呼びキ-60を水子に終わらせているが、
どちらでも対応できる戦闘機へと仕上がった。
これは先にあげたドイツ、アメリカ、それにイギリスやソ連でも同じことで、
Fw190、P-51、『テンペスト』、Yak-9といった機体へ帰結していく。
また詳しくは当該項目を参照されたいが、
『隼』も一撃離脱は決して不得手ではなかった。
脱却できなかったのは日本海軍である。
零戦は高速度で舵の効きが悪かったし、
『烈風』は(空母運用の制約もあったが)翼面荷重に制限がかけられ開発が遅れた。
「ドッグファイトで有利に立てて、足が速いのも当たり前」という戦闘機の設計思想は、
超音速ジェット戦闘機の時代に入っても変わっていない。
関連イラスト
別名・表記ゆれ
関連イベント