本機はB7A1「流星」として設計されたが、生産にあたって設計に手が加えられた。
この手直しは機体全体にわたったため、改善された生産型ではB7A2「流星改」と名前も改められたという。
この話には異説もあり、実際に変更された点は僅かで、B7A2「流星改」とは後の改良型の事を指すとする説もある。
(生産された流星はもちろんB7A1である)
活躍の場に恵まれなかった本機だが、のちの戦争ではアメリカの同様コンセプト機が活躍して戦果を残している。「流星」の生い立ちは決して間違っていなかったのである。
急降下爆撃機の精確さと雷撃機の搭載量
太平洋戦争の開始から科学技術はますます発展し、急降下爆撃機の搭載できるような爆弾では、防御力の上がった敵の主力艦艇(戦艦など)の前には通用しない事態になりつつあった。これに対抗するためには更なる大型爆弾が必要であり、そうなると機体が耐えられるように強度や出力を上げる必要があった。
雷撃機の方でももっと機敏に動き回り、敵艦の弱点を精確に狙えるように、あるいは逃げ回れるよう、機体強度や出力を増す必要に迫られていた。
この求められる二つの要件、つまり
・機体をふり回せる高い強度
・より大きな兵器搭載量
は共通したものとなり、ここに両者を統合して同じ機体でこなせる事が求められた。
こうして昭和16年(1941年)、愛知航空機で「十六試艦上攻撃機」の開発が始まった。