備中高松城
びちゅうたかまつじょう
備中高松城とは岡山県岡山市に存在した戦国時代の城郭である。
概要
豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の中国遠征終盤の水攻めの舞台として有名な城。香川県にある同名の近世城郭と区別して「備中高松城」と呼ばれる。
典型的な戦国時代の平城であり、複数の小規模の郭が築かれ、石垣のような立派なモノはなく、土塁と櫓と柵で防備されていた。周囲は湿地帯で攻めにくい土地であり、この沼地などが天然の堀として複雑に形成されていた。
戦国時代の備中地方は小大名が入り乱れる大乱になっており、その中でも三村氏という大名が次第に強大になっていった。同城は三村氏の配下、石川氏が築いた拠点だった。石川氏は主家共々毛利氏によって滅ぼされ、同城は毛利氏側についた国人・清水宗治が治める城となった。
織田信長の天下統一の一環である中国攻めでは、秀吉が同城を包囲した。難攻不落の城と高い士気を持つ城兵に対し、秀吉は城の周囲を堤防で囲むという奇策に打って出た。湿地帯で周囲の土地より低位置にある高松城は雨期に入るとあっという間に水没し、城はほとんどが水中の水に浮かぶ孤島となってしまった。
最終的に、信長が本能寺の変により横死したため攻城戦は和議という形で終わり、城兵の助命の代わりに城主・清水宗治の切腹で講和となった。宗治は水上に小舟を漕ぎ出させ、羽柴・毛利両軍が見守る中で堂々と腹を斬ったという。
その後も高松城は宇喜多氏の城となり使用され続け、江戸幕府の一国一城令で廃城となり役目を終えた。
現在は本丸跡とその周辺が公園となっている。周辺には堤防の一部や宗治の墓がある。