三隈(重巡洋艦)
みくま
主要データ
- 排水量:11200t。
- 全長:200.6m。
- 全幅:20.6m。
- 速力:34ノット。
- 兵装:
- 15.5cm三連装砲塔5基。(後に20.3cm連装砲塔5基に換装)
- 12.7cm連装高角砲4基。
- 25㎜連装機銃4基。
- 13㎜連装機銃2基。
- 61cm三連装魚雷発射管4基。
- 装甲:舷側140㎜。甲板60㎜。主砲前盾25㎜。
- 乗組員:894名。
艦歴
1931年12月24日に三菱重工業長崎造船所にて起工。
1934年5月31日、進水。
1935年8月29日に竣工。
9月26日の荒天下での演習、いわゆる第四艦隊事件で艦首に亀裂が生じる。
1937年12月1日に姉妹艦と共に第二艦隊第七戦隊が編成される。
1939年11月15日~12月30日に主砲の20.3cm砲塔への換装工事を行う。
1941年12月8日~1942年2月までマレー上陸作戦、クチン攻略作戦、エンドウ上陸作戦、バレンバン上陸作戦、ジャワ攻略作戦支援などに活動。
3月1日、バタビア沖海戦で米重巡洋艦ヒューストン、豪軽巡洋艦パースを姉妹艦である重巡洋艦最上などと協同で撃沈。その後はスマトラ、ビルマ攻略作戦などを支援。
4月、最上、駆逐艦天霧と共にベンガル湾で通商破壊作戦を行い商船5隻を撃沈。
1941年6月5日のミッドウェー海戦時はミッドウェー攻略支援部隊であり、10時頃に連合艦隊司令部よりのミッドウェー島砲撃命令を受け進撃するも、21時過ぎに連合艦隊への合流命令を受け反転し合流を目指す。その最中の23時30分頃に米潜水艦タンバーを発見した第七戦隊が雷撃回避の為に回頭した際に最上が三隈の左舷後部に衝突。第七戦隊司令官栗田健男少将の命で損害が軽微であったことから戦隊から分離して艦首が潰れ速力も低下した最上の援護とトラック島へ退避するように命じられる。
7日、退避中に米機動部隊の攻撃を受け、一説には20発以上の爆弾を被弾し、魚雷も誘爆した三隈は沈没を遂げた。生存者は駆逐艦荒潮、朝潮に救助された約240名と米潜水艦トラウトが救助した2名であり、600名以上が戦死を遂げ、艦長の崎山釈夫大佐も戦傷死した。
逸話
最上と衝突した折、三隈は破孔が生じ、燃料タンクが損傷して燃料が漏れるようになったものの損害は軽微であり、艦首を潰され速力が低下した最上の方が損傷は酷かった。退避中に度重なる敵機の接触と攻撃を受けた三隈は合流した駆逐艦荒潮、朝潮に最上の護衛を任せ、単艦、安全圏に入り込もうとしたが時既に遅く、空襲にて撃沈され、最上は第二艦隊と合流する事が出来た。
一説では艦首を潰された最上は皮肉にもそれで海の抵抗が増したのか舵の利きが良くなり、空襲をなんとか致命傷を受けずに回避する事が出来たともいう。
三隈を沈めた空襲の折の写真撮影でアメリカ側は初めて最上型が20cm砲に換装していることを知ったという。