佐久間盛政
さくまもりまさ
天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。 「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。織田家臣・柴田勝家の甥。玄蕃允を自称した。
盛政は各地の戦に参加して功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれた。
叔父の柴田勝家が越前の国主になると、盛政は寄騎として柴田勝家を支えた。
その後は加賀一向一揆や上杉家との戦いで活躍し、信長から加賀の統治を任された。
出自
織田家臣・佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。
弟に柴田勝政(※勝安)、保田安政、佐々勝之がいる。
妻は佐久間盛重の娘。
佐久間家は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家。
尾張の佐久間家は尾張・三河国境周辺に所領を有し、熱田神宮と結びつきを強めて伊勢湾の流通にも関わっていた可能性が指摘されており、その利害関係から織田家に仕えて今川家や三河の国人衆と激しく争った。
また織田信長の尾張統一戦では一貫して信長に味方したので、信長から厚い信頼を寄せられた。
織田家重臣の佐久間信盛(父盛次の従兄弟)や、桶狭間の戦いで玉砕した佐久間盛重(叔父、舅)らを輩出した。
ちなみに柴田家は婚姻や養子縁組を通じて佐久間家との関係を積極的に強化していたようである。
佐久間の名字を持つ武将が多数、柴田家の家臣や寄騎として記録に残っており、また盛政の寄騎や家臣には柴田家の家臣だった人物もいた。
軍事作戦でも両家の将兵は行動を共にすることが多かった。
主君の信頼厚い名門の家に生まれた盛政は、武人としての誇りと、身の丈六尺=180cm以上という巨躯を備えていた。赤ら顔で頬髭豊かな豪傑らしい容貌だったとされる。
※柴田勝政は初め勝安と名乗っていた。ただし別人説もあり、その場合は両者の事跡を区別する必要がある。