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佐久間盛政の編集履歴

2016-08-08 21:37:30 バージョン

佐久間盛政

さくまもりまさ

天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。 「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。織田家臣・柴田勝家の甥。玄蕃允を自称した。 盛政は各地の戦に参加して功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれた。 叔父の柴田勝家が越前の国主になると、盛政は寄騎として柴田勝家を支えた。 その後は加賀一向一揆や上杉家との戦いで活躍し、信長から加賀の統治を任された。

出自

織田家臣・佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。

弟に柴田勝政(※勝安)、保田安政、佐々勝之がいる。

妻は佐久間盛重の娘。

佐久間家は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家。

尾張の佐久間家は尾張・三河国境周辺に所領を有し、熱田神宮と結びつきを強めて伊勢湾の流通にも関わっていた可能性が指摘されており、その利害関係から織田家に仕えて今川家や三河の国人衆と激しく争った。

また織田信長の尾張統一戦では一貫して信長に味方したので、信長から厚い信頼を寄せられた。

織田家重臣の佐久間信盛(父盛次の従兄弟)や、桶狭間の戦いで玉砕した佐久間盛重(叔父、舅)らを輩出した。


ちなみに柴田家は婚姻や養子縁組を通じて佐久間家との関係を積極的に強化していたようである。

佐久間の名字を持つ武将が多数、柴田家の家臣や寄騎として記録に残っており、また盛政の寄騎や家臣には柴田家の家臣だった人物もいた。

軍事作戦でも両家の将兵は行動を共にすることが多かった。

主君の信頼厚い名門の家に生まれた盛政は、武人としての誇りと、身の丈六尺=180cm以上という巨躯を備えていた。赤ら顔で頬髭豊かな豪傑らしい容貌だったとされる。


※柴田勝政は初め勝安と名乗っていた。ただし別人説もあり、その場合は両者の事跡を区別する必要がある。


初陣~元亀年間の活動

1568年、織田信長は将軍候補・足利義昭を奉じて上洛作戦を開始。

盛政は父に従い近江箕作城攻めで武功を挙げて初陣を飾った。

1570年4月の越前攻めでは若年ながら兵を率いて手筒山城攻めで活躍。

それ以前に父盛次は死去したか隠居して盛政が跡を継いだと考えられている。

同年6月、織田軍の主力が美濃へ引き揚げた隙に、南近江で六角家が蜂起。

柴田勝家と佐久間信盛は出陣して野州河原で六角軍に決戦を挑んだ。

盛政は、この戦いが初陣となった弟・安政と共に先駆けて敵陣へ攻め込み、大活躍した。

当時の盛政は、近江南部の国人衆を率いた柴田勝家の与力だったとされる。

一方、河内畠山家臣・保田家の養子になっていた安政は同年8月、三好家との合戦にも参加して一番槍の手柄を立てた。

1571年の比叡山攻めでは、盛政の弟で柴田勝家の養子になっていた柴田勝政が初陣で参戦。

1572年4月、織田家から離反した三好義継と松永久秀が河内国で畠山昭高を攻撃。

佐久間信盛は織田軍を率いて救援に向かい、保田安政も参戦した。

佐久間信盛と保田安政は同年11月の三方ヶ原の合戦にも参戦した。

1573年、将軍足利義昭が挙兵して織田家と対決した槇島合戦が始まった。

盛政は柴田勝家に従い参戦して柴田勝政と先陣争いをした。

同じく保田安政は佐久間信盛・信勝父子に従い、真先に川を渡って佐久間勢を先導した。

さらに敗北した足利義昭を匿った三好義継を佐久間信盛が攻撃。

保田安政は佐久間信盛に従い河内国若江城へ攻め込み、三好義継を自害に追い込んだ。

元亀年間は信長が朝倉・浅井・六角・三好・武田・延暦寺・本願寺・将軍家と敵対して存亡の危機に立たされた時期であり、窮地の中で獅子奮迅の働きをした佐久間兄弟を信長は激賞した。

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