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佐久間盛政の編集履歴

2016-08-08 21:42:06 バージョン

佐久間盛政

さくまもりまさ

天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。 「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。織田家臣・柴田勝家の甥。玄蕃允を自称した。 盛政は各地の戦に参加して功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれた。 叔父の柴田勝家が越前の国主になると、盛政は寄騎として柴田勝家を支えた。 その後は加賀一向一揆や上杉家との戦いで活躍し、信長から加賀の統治を任された。

出自

織田家臣・佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。

弟に柴田勝政(※勝安)、保田安政、佐々勝之がいる。

妻は佐久間盛重の娘。

佐久間家は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家。

尾張の佐久間家は尾張・三河国境周辺に所領を有し、熱田神宮と結びつきを強めて伊勢湾の流通にも関わっていた可能性が指摘されており、その利害関係から織田家に仕えて今川家や三河の国人衆と激しく争った。

また織田信長の尾張統一戦では一貫して信長に味方したので、信長から厚い信頼を寄せられた。

織田家重臣の佐久間信盛(父盛次の従兄弟)や、桶狭間の戦いで玉砕した佐久間盛重(叔父、舅)らを輩出した。


ちなみに柴田家は婚姻や養子縁組を通じて佐久間家との関係を積極的に強化していたようである。

佐久間の名字を持つ武将が多数、柴田家の家臣や寄騎として記録に残っており、また盛政の寄騎や家臣には柴田家の家臣だった人物もいた。

軍事作戦でも両家の将兵は行動を共にすることが多かった。

主君の信頼厚い名門の家に生まれた盛政は、武人としての誇りと、身の丈六尺=180cm以上という巨躯を備えていた。赤ら顔で頬髭豊かな豪傑らしい容貌だったとされる。


※柴田勝政は初め勝安と名乗っていた。ただし別人説もあり、その場合は両者の事跡を区別する必要がある。


初陣~元亀年間の活動

1568年、織田信長は将軍候補・足利義昭を奉じて上洛作戦を開始。

盛政は父に従い近江箕作城攻めで武功を挙げて初陣を飾った。

1570年4月の越前攻めでは若年ながら兵を率いて手筒山城攻めで活躍。

それ以前に父盛次は死去したか隠居して盛政が跡を継いだと考えられている。

同年6月、織田軍の主力が美濃へ引き揚げた隙に、南近江で六角家が蜂起。

柴田勝家と佐久間信盛は出陣して野州河原で六角軍に決戦を挑んだ。

盛政は、この戦いが初陣となった弟・安政と共に先駆けて敵陣へ攻め込み、大活躍した。

当時の盛政は、近江南部の国人衆を率いた柴田勝家の与力だったとされる。

一方、河内畠山家臣・保田家の養子になっていた安政は同年8月、三好家との合戦にも参加して一番槍の手柄を立てた。

1571年の比叡山攻めでは、盛政の弟で柴田勝家の養子になっていた柴田勝政が初陣で参戦。

1572年4月、織田家から離反した三好義継と松永久秀が河内国で畠山昭高を攻撃。

佐久間信盛は織田軍を率いて救援に向かい、保田安政も参戦した。

佐久間信盛と保田安政は同年11月の三方ヶ原の合戦にも参戦した。

1573年、将軍足利義昭が挙兵して織田家と対決した槇島合戦が始まった。

盛政は柴田勝家に従い参戦して柴田勝政と先陣争いをした。

同じく保田安政は佐久間信盛・信勝父子に従い、真先に川を渡って佐久間勢を先導した。

さらに敗北した足利義昭を匿った三好義継を佐久間信盛が攻撃。

保田安政は佐久間信盛に従い河内国若江城へ攻め込み、三好義継を自害に追い込んだ。

元亀年間は信長が朝倉・浅井・六角・三好・武田・延暦寺・本願寺・将軍家と敵対して存亡の危機に立たされた時期であり、窮地の中で獅子奮迅の働きをした佐久間兄弟を信長は激賞した。


天正元年~一向一揆との戦い

信長包囲網が消滅した後も、織田家と佐久間兄弟の苦難は続いた。

1574年1月、越前一向一揆が挙兵。

隣国加賀から援軍を得た一向一揆は越前の織田軍を駆逐し、5月までには越前のほぼ全域を掌握した。

続いて3月には甲斐の武田勝頼が美濃へ侵攻。織田家は武田軍への対策に追われて越前を奪還できなかった。

同年4月、畿内の反織田勢力と阿波・讃岐の三好党が結集して攝津・和泉・河内で織田方の城を攻撃。

河内では前年、保田安政の主君だった守護の畠山昭高(信長派)が守護代・遊佐信教(将軍派)に謀殺されていた。

保田家は信長に救援を求め、佐久間信盛が派遣された。

保田安政は佐久間勢の先鋒として高屋城攻めに参加。この時は織田方が劣勢のまま決着はつかなかった。

しかし1575年4月に入ると織田軍は反撃して三好軍に勝利し、 三好一門は相次いで信長に降伏した。

5月には長篠の戦いで織田・徳川軍が武田軍を打ち破り、続いて美濃東部を武田家から奪還した。

後顧の憂いを絶った織田軍は同年9月、越前一向一揆を攻撃して完勝。加賀にも攻め込み南部の江沼郡・能美郡を征服した。佐久間盛政も越前攻めに参加した。

戦後、柴田勝家が越前の統治を任されると、盛政は引き続き柴田勝家の寄騎として配属された。

同僚は前田利家・佐々成政・不破光治・金森長近・簗田広正・武藤舜秀たちで、彼らはいずれも信長に重用された武将だった。

1576年5月、盛政は越前で本願寺教団と対立していた浄土真宗高田派の専修寺に対し、門徒の武装を勧める書状を送った。

同月には府中で一揆が織田家に対する反乱を起こしており、盛政たちが挙兵を予測して対策を講じていた可能性がある。

また前年には柴田勝家も専修寺に武装を指示した。他方で徴税の一環として武器を納めるよう劔神社に命令した。

当時の越前は、滅亡した朝倉家を慕う領民たちが反織田家の活動を行うために改宗して一向一揆に参加するなど不穏な情勢が続いていた。

大規模な反乱に備えて柴田勝家や盛政たちは軍備の充実を急いでいたようである。

また朝倉家の残党は加賀一向一揆に合流し、柴田勝家が率いる北陸方面軍と戦い続けることになる。

同月、畿内では保田安政が石山本願寺攻めに参加。苦戦の末に強敵・雑賀衆を敗走させた。

11月、加賀・越前の一向一揆が挙兵。織田家の梁田広正が守る加賀大聖寺城などを攻撃した。

梁田は善戦して敵を撃退したが、すぐに加賀の国中の一揆が挙兵して大軍で押し寄せた。

盛政は柴田勝家の指示で援軍として駆けつけ、一揆に奪われた城砦を奪還。

この戦いでは柴田勝政とその軍勢も奮闘して敵を多数討ち取った。

戦後、加賀の旗頭だった梁田とその寄騎たちは尾張に呼び戻された。

一方、佐久間盛政は大聖寺城の支城である日谷城に駐留し、次いで大聖寺城に移った。

この異動により盛政は梁田の後任として加賀の旗頭に据えられたとみられる。

※尾張へ戻った梁田は、織田家当主となった織田信忠(信長の嫡男)に仕えた。

 梁田は元々信長の馬廻り衆(親衛隊)だったので、加賀からの退去は左遷ではなかった可能性もある。

 柴田勝家の与力で信長の馬廻り衆だった前田利家や佐々成政たちはその後も畿内の合戦に頻繁に動員された。同じ与力でも加賀攻略に専念した盛政とは違い、前田利家たちは信長の戦に参加するのが主任務だったのだろう。盛政は馬廻りを経験しなかったことから消去法で梁田の後任に選ばれたのかもしれない。 勿論盛政が信長から期待されたからこその人事だった。

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