60型
びわこごう
京阪60型は、大阪天満橋と浜大津を直通運転するために製造された日本初の連接車である。
愛称は「びわこ」で、側面に「こわび」【右読みで記載】のプレートを装着していた
この車両を製造するにあたって、政治的な理由があった。京阪線の五条(現・清水五条)~三条間は京都市が市電敷設を目的に特許を取得していた区間であり、京津電気軌道(現在の京津線)と琵琶湖連絡を円滑に行うことを条件として20年契約で借り受けて開業させた。1920年代に京津側から合併要望があり、京阪にとって三条駅を京都側ターミナルとして維持し続けるために、京阪線と京津線を直通運転する車両を作る必要があった。
1934年に日本車輌本店工場(名古屋市)にて61~63の3編成が製造された。2車体3台車の固定編成で日本初の連節構造を採用した。これについては、京津線の急カーブ区間を通過させるのと輸送力増加の両立を図る目的があった。連接車については京阪電気鉄道の車両課長であった佐藤一男氏が欧米を視察旅行した際にアメリカのブリル社を見学、同社が製造していたワシントン・ボルチモア・アンド・アナポリス電気鉄道向けの車両の情報を得て調査を実施した。
60型の特徴である乗降用の低床ステップと高床ステップの組み合わせもこのアメリカの電気鉄道の車両の仕様を採用したものである。すなわち高床式ステップは京阪線内で、低床ステップは京津線での使用が目的であった。また集電装置も京阪線用のパンタグラフと京津線用のトロリーポールの両方を備えた。連結面は通常の幌だと京津線内の急カーブに対応できないため、金属製の円筒形のドラムを幌代わりに採用した。特徴的な流線型の車体は、日本車輌で製造された私鉄向けガソリンカーにも採用され、特に浜大津で接続する江若鉄道のガソリンカーに多く採用された。この特徴的な車体を「びわこ形」と呼ぶファンもいる。
こうして華々しくデビューした60形であったが、路面電車を少し大きくしたような車体に無理やり機器を詰め込んだ結果、京阪線での高速運転では後続の急行列車に追いつきそうになったり(ちなみに「びわこ号」は特急である)は、乗り心地が悪かったりで乗客からは不評であったという。京阪線内では天満橋~三条間をノンストップ運転することにより何とかダイヤに乗せるようにした。当初、天満橋~浜大津間は所要時間72分に設定していたが、性能ギリギリの運行であったため後に所要時間を77分に変更した
しかし、浜大津までの直通運転はレジャー目的であったため戦時に入ると直通運転は中止され、京阪線のローカル運用(天満橋~守口)に就くことになった。しかし、資材不足で3編成のうち2編成までが長期休車に追い込まれた。戦時中唯一の直通運転は、近江神宮の「大化改新千三百年祭」開催時の臨時特急列車(1945年1月25日運転。天満橋~近江神宮前)であった。戦後は所属が京阪線の守口車庫から京津線の四宮車庫に異動となったが、1949年四宮車庫で火災が発生。26両中22両が全焼する惨事となったが、幸いにも60型は1編成が京阪線深草車庫に、四宮車庫にいた2編成も職員の機転と近隣住民の協力により難を逃れた。戦後は京津線での活躍がメインとなり、京阪線への直通運転は初詣(浜大津~八幡町【現・八幡市】)・初午(浜大津~伏見稲荷)・ひらかた大菊人形展開催時(浜大津~枚方公園)に臨時列車として運行するだけになり、ついに1961年11月23日、浜大津~枚方公園間の直通運転をもって終了となった(その後、80形の搬入のため京阪線の片町駅【京橋駅付近にあったが現在は廃止】まで入線した実績あり)。
京津線での活躍も、車体の老朽化によりATS装備対象から外され、80形に代替される形になり1970年に引退となった。
引退後、電気機器と台車が京阪線700系に転用されたが、幸いにも63号だけは車体と中間台車が残ったまま錦織車庫で保管された。1980年、京阪電気鉄道創業70周年記念事業の一環で63号を製造当時の姿に復元することになったが、この際700系に使用された台車などが戻ることになった(700系が新性能車両化【1000系に更新】したため元からあった台車が不要になったため)。トロリーポールは京福電気鉄道から寄贈されたものも使い復元、以後はひらかたパーク内で展示された。しかし、1995年から始まった同園内リニューアルに際し再修復が行われた。園内リニューアルにより展示スペースを失った63号は寝屋川車庫に移され屋内保存されることになり、イベント開催時に公開されることとなった。
2010年、京阪電気鉄道と寝屋川市が主体となり「『びわこ号』復活プロジェクト」を立ち上げることとなった。修復資金は2500万円集まった。当初は本線運行を目指していたが、現在の保安基準を満たせないため、車庫構内でこれまた京津線に縁のある寝屋川車庫構内入換車に牽引・推進される形で走行した。