巨椋池を擁する大坂と京都の間、伏見に築かれた城である。
1591年に聚楽第を甥の秀次に譲った秀吉の隠居用の屋敷とそて築かれたものであった。
1593年には明との交渉等を控え、日本の国力を示すために本格的な城として改修されることとなった。
これを指月伏見城と呼ぶ。
大規模な土木工事や街道の整備が行われ、大坂城、聚楽第に勝るとも劣らない城となった。
1594年には廃城となった聚楽第の部材も運び込まれ城下町も整備された。
しかし、1596年、慶長伏見地震が発生し大規模な損害を被る。
その後、伏見城の避難場所とされた木幡山をそのまま第二の伏見城とした。
これを木幡山伏見城と呼ぶ。
木幡山伏見城には旧伏見城の部材が再利用され、かなりの短期間で完成にこぎつけている。
関ヶ原の戦いの際には島津軍の猛攻撃を受け落城。
ほとんどの建築物を焼失することになる。
江戸時代には家康によって再建。
家康は江戸城より伏見城にいることのほうが多かったともされている。
しかし駿府城の完成と共に使用されなくなり、1619年に廃城となった。
しかしその後、淀城を新たに築城することとなったため、部材の多くは淀城に再利用された。
遺構からは何重もの地層が発見されており、地震等による災害後、何度も盛り土が繰り返されてきたことを証明している