シーランド公国(Principality of Sealand)とは、イギリス南東岸10キロに浮かぶ自称国家である。
国土は第二次世界大戦中にイギリスが作った海上要塞(人工物)であり、国連に加盟するすべての国で承認されていない。
よって、シーランド公国関係につくタグかと思いきや
現状では日丸屋秀和氏の作品「Axis powers ヘタリア」に登場するシーランド擬人化キャラクター関係のイラストに多く付いているタグである。
概要
国土 550㎡
首都 シーランド
人口 4人(政府職員は14人)
政体 君主制
元首 ロイ・ベーツ公(Prince Roy Bates)
言語 英語
建国 1967年9月2日
歴史(ベーツ朝シーランド史観)
国土誕生
シーランドの歴史は、他国と違い国土の形成から語らなければならない。なぜなら、この偉大なる国は神の手によって創造されたのではなく、人間の意志によって形作られたものであるからである。
事の起こりは、第二次世界大戦中のことである。イギリスはナチスの脅威に対し、本国の守りにと4つの海上要塞、多数の海上トーチカを建設した。その内、北端の守りとして築かれた海上要塞こそが、後の偉大なるシーランド公国の母体となる荒砦(Roughs Tower)である。
これらの要塞はまさに自由を守る城門として海上に君臨しており、とくに神の恩寵深き荒砦の、その王者たる姿は、ドイツ総統ヒトラー、海軍元帥エーリヒ・レーダーして恐怖に陥れ、荒砦は北海の獅子なり、聳ゆる姿あるかぎり英国に手を出せず、としてアシカ作戦実行の意思を挫いたとも言われている。しかし、イギリスは大戦が終わるとともに勝利に奢り、この北海の守り主たる無機の英雄を無慈悲にも打ち捨てたのである。そして、この自由の牙城は新たな主を迎えるまでしばし雌伏の時を過ごすこととなる。
独立宣言
時は過ぎ、戦後二十数年の月日が経つ頃のことである。不世出の英雄にして対ファシズム戦闘の功労者、英邁にして豪胆なるイギリス軍少佐であったロイ・ベーツは、ナチスから守りぬいた自由を、母国イギリスが逆に束縛せんとしていることに対して、強い危惧を抱いていた。そうした中、事件は起こる。すなわち、イギリス政府も彼の大胆不敵な行動、大きく飛躍するその自由の精神を危ぶんでおり、遂にイギリス政府は自国の伝統たる忌まわしい姦計を弄したのである。ロイ・ベーツは放送法違反をもって訴えられ、その自由なる精神は法という網によりまさに絡み取られんとした。しかし、世界に比類なき賢きロイ・ベーツはそれを逆手に取り、イギリス司法の及ばぬ、打ち捨てられたあの堅固なる海上要塞に立つと独立宣言を発表。すなわち、かつてファシズムから自由を守った海上要塞をして、自由の要塞となしたのである。これがエリザベス2世の朝、15年目(1967)の出来事であった。
建国
高らかになされた独立宣言により、海上要塞は国土にして首都、宮殿にして城砦となった。豪胆なるロイ・ベーツは自ら戴冠して大公(Prince)を称する。ベーツ朝シーランド公国の誕生である。これにたいして、彼をからめとらんとしたイギリスの野望は、自らの良心たる司法により砕かれることとなった。エリザベス2世朝16年、ベーツ朝2年目(1968)の11月25日、シーランドは英国司法の管轄外であることの判決が出たのである。
シーランド公国は、人類における自由の砦であり、それを示す如くモットーは「E mare libertas(海からの自由)」である。大公ロイ・ベーツはアメリカ合衆国皇帝及びメキシコ護国卿たるノートン1世にも比肩しうる人物であると、人々は口々にそういい、独立の報は様々な報道機関によって世界中に伝えられた。「大公にして自由の擁護者」「大海の守護者、孤高の戦士」「王侯貴門を道化となす者」と称賛の声が天地を揺るがし、生国の禄を食みながらも馳せ参じるものが後を絶たなかったという。
反乱
しかし、エリザベス2世朝35年、ベーツ朝20年(1987)目に王朝を揺るがす大事件が勃発する。佞臣アッヘンバッハの謀叛である。アレクサンダー・アッヘンバッハはドイツ人であったが、かつて公国憲法を起草したともされる大公の信任厚き首相であった。その彼が一党をなし、商談を偽り大公を国外に連れだして、その隙に外国人からなる武装集団を自由の城砦シーランドに招き寄せるという神をも恐れぬ非道にでたのである。
かくして、マイケル公子は人質となり、大公は国土を追われることとなった。そして、アッヘンバッハは非道にも大公廃位を宣言する。しかし、傷心の大公が生国イギリスに着くや、その危機を救い、いまこそ大公に報じんと同志二十数名が膝下に参じた。武勇に勝る大公はこれにより気力を取り戻し、この武力をもって逆に奸臣を追い立て、国土に返り咲いたのである。
そして、慈悲深き名君、ロイ・ベーツはこの暴虐たる内戦が終了するや捕虜をすべて解放、アッヘンバッハ一党に寛大にも罰金7万5千マルクを課すのみであった。時の西ドイツ政府は、この自国民の暴挙に対し大いに恐れ驚き、イギリスに助けを求めたが、イギリスこそかつて大公を捕えんとした張本人であり、当然のごとくイギリス政府はドイツの助けを無慈悲にも断った。窮したドイツは「地下交渉は大公の太陽のごとく輝く威光には合わず」と正式な外交官をシーランドに派遣することとなった。これに対して大公、「アッヘンバッハの行いは遺憾なれどもドイツに責はあらず」として、ドイツの礼に対し、罰金の免除で返した。
これはかつてのカエサルをも超えるという懐の深さであり、古今並ぶことのない剛毅な大将よ、徳の深さとはこういうことよ、としばらくは人々の口に上らぬ日は無かったという。
姦計
同じくベーツ朝20年(1987)10月、次はイギリス政府による公国への非道なる暴虐が起こされた。領海の延長宣言である。これは、イギリスが従来の3海里(約5.5km)の領海を12海里(約22km)に拡大するとの一方的宣言であり、これはまさにシーランドに対する挑戦であった。すなわち、イギリス沿岸に君臨する自由の城砦シーランドは、このイギリスの宣言により完全にイギリス領海に囲まれてしまうことになる。これはまさにかつてイギリスで農民の土地を奪った非道なるエンクロージャーと同じ業であり、彼らは一個の独立国家に対してこれを用いるという前代未聞の蛮行を行ったのである。しかし、大公はまさに賢者であり知将であった。驚くべきことに宣言の前日をもって公国も同じく領海を拡大し、イギリスの魔手を脱したのである。この、武力を用いず大国の意図をくじく見事な手腕に、世界中で賞賛の声が上がったのはいうまでもない。
激動
かくして平穏を取り戻したシーランドであったが、エリザベス2世朝54年、シーランド独立から数えて39年目(2006)から激動の時代を迎える。
まず、その年6月23日、シーランド全土の電力を賄う、守り主たる発電機が火を噴き、国土に不吉な火災が起きた。これは、大公夫妻が国土に戻り、復旧に尽力した結果、驚くべきことに一か月ほどで全国土の復旧を成し遂げた。これには、老いてもなお、国家を愛し、その非凡なる能力を示されたのだと人々の間で話題になった。
しかし、40年(2007)にさらなる悲劇が起きる。全世界を取り巻く不況の影響により、国全体が売りだされたのである。これには、ヴァイキングの裔を誇るアイスランドさえ逃れられなかった大波が、一城をして国土となすシーランドをついに飲み込んだかと、ラグナロックのヨルムンガルドとはまさにこのことであろうかと、自由を愛する人々の頬を濡らした。
しかし、マイケル摂政公子はこのような中でも希望を失わず、臣民に対してこの国難を乗り越えるべし、若き力を得たシーランドを大公にお見せするべしとのお言葉を発せられ、シーランド国民一同、国難に対し奮起すること甚だしきものであった。
なお、スウェーデンの振興企業が不遜にも買収に乗り出し、何よりも自由を愛する大公に一蹴されたのは記憶に新しいところである。
――シーランド公国一男爵記す。一城主にて無限の権威と騎士団を誇る、シーランド大公ロイ、摂政公子マイケル両殿下に海神ネプチューンの祝福あらんことを。
爵位売買
シーランド公国は、インターネット上で期間限定の爵位を販売しており、これを買えば爵位(もちろん自称国家の爵位なので国際的に認められたものではない)が名乗れる。
販売している爵位の種類としては
ロード(Lord)、レディ(Lady)、男爵(Baron)、男爵夫人(Baroness)の4つである。
しかし、ここで具体的なことを書くのは差し控える。
興味のある方は公式サイト等にいって確認されるべきであろう。
なお、日本人の著名人の中で、かしこくも大公殿下より爵位を授けられたことのある方々は以下のとおりである。
西川きよし閣下(Lord kiyoshi Nishikawa)
後藤寿庵閣下(Lord jyuan goto)
折笠愛閣下(Lady Ai Orikasa)
※今も爵位を保持しているかは不明
シーランド亡命政府
前述の元シーランド首相アッヘンバッハ氏は、シーランド追放後、シーランド亡命政府をつくった。つまり、自称国家の亡命政府である。パスポートを15万通ほども売りさばいたとか。