1583年に岡氏が加里屋城として築いたのが始まり。
その後赤穂加里屋城として改修を経て、1646年に浅野氏により本格的に赤穂城として大改修される。
甲州流兵法家近藤氏によって実戦的な縄張が築かれることとなった。
尚、兵法家であった山鹿素行が幕府の朱子学を批判したことによって流罪となり、その道中赤穂に立ちより7ヵ月の滞在中に縄張の改修を指示したとも言われる。
これにより二の丸に設計変更が加えられた。
縄張には横矢掛りが多く設けられ鉄砲による十字砲火が可能な造りとなっている。
千種川から豊富な水を引き入れた水城としても機能している。
平和な江戸時代においては珍しいかなり実戦的な構造であった。
しかしながらわずか5万石の浅野家にとって城の大改修は金銭的に厳しく、天守台は築かれたものの天守の建造は見送ったとされる。
尚、この地には赤穂城築城の際の狐の伝説が存在する。
赤穂の地で平和に暮らしていた狐たちだったが、ある日人間たちが突然狐たちの土地に無断で城を建て始めた。
怒ったホンスケを代表とする狐たちは赤穂城の築城の邪魔を始めるのだった。
最終的には狐との話し合いの末、稲荷神社を建立し、狐たちの安住の地を約束することで和解したという。