元々は漢中を地盤にしていた魏の軍人。漢中攻防戦のさなかに蜀に降る。
演義では漢中の道案内として同道するも、主将の俆晃と殺されかけるほどの大喧嘩をしてやむなく蜀に降ったという流れになっている。
字の読み書きができず軍議や作戦説明等の際は字の分かる文官から内容の説明を受けていたらしく当時のインテリ層からはバカにされていた節はあるが、頭自体は悪くなかったようで説明されればしっかりとそれを記憶し、また命令も独断専行等を行わずしっかりと遂行していたため、諸葛亮はじめ上官からはしっかりと評価はされていたようだ。
特に、街亭の戦いの際は馬謖に対し「それは丞相(諸葛亮)の命令と異なる、丞相の指示は麓の間道に堅固な陣を築け(時間を稼げ)である」と正面から反論を行い、それが取り入れられないと見るや諸葛亮の指示通りに麓の間道に布陣し、結果的には街亭駐屯軍の壊滅を防いだことから、諸葛亮すら指示に従わなかった馬謖の任命責任や司令官としての敗戦責任を取って、実験は握ったままとはいえ表向きは自らを降格させるなか、命令を忠実に守った事、前述の軍の壊滅を防いだことにより第一次北伐の主要メンバーの中では唯一の加増を受けている。
その後も反乱、あるいは楊儀討伐の為に独断で軍を動かした魏延を打ち取ったり(演義(横山三国志)では「我を討てる者がおるか!」「ここにいるぞ!」の場面で有名)、魏の遠征軍を撃破したりと蜀の功臣として活躍し続けている