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織田作之助の編集履歴

2019-06-29 23:14:30 バージョン

織田作之助

おださくのすけ

織田作之助とは日本の小説家である。 終戦後、「太宰治」「坂口安吾」らと共に無頼派、新戯作派とよばれ、「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。「夫婦善哉」で作家としての地位を確立。

ここでの織田作之助は、史実の織田作之助です。


概要

1913年(大正2年)、大阪市南区生玉前町、「魚春」の長男として生まれる。


当時両親は母方から結婚反対に遭っていた為に婚姻届を提出できておらず、戸籍上は母の兄・鈴木安太郎の甥「鈴木作之助」という形をとった。作之助が「織田作之助」となるのは、1926年に両親が正式に入籍を果たしてからである。


1920年(大正9年)、大阪市立東平野第一尋常高等小学校に入学。

1931年(昭和6年)、旧制大阪府立高津中学校を卒業し、第三高等学校、文科甲類に合格を果たす。1

934年(昭和9年)、卒業試験中に喀血し、白浜温泉への転地療養を余儀なくされる。その後復学はするものの、勉学に対する意欲を失い、町歩きに明け暮れるようになり、結局1936年(昭和11年)に出席不足で退学した。


1935年(昭和10年)作家活動を開始。当初は劇作家志望で『嶽水会雑誌』に戯曲「饒舌」を発表したりしたが、スタンダールに影響を受けて小説家へ志向を転換。青山光二らと共に同人誌『海風』を創刊。

1938年(昭和13年)には処女作「雨」を発表して武田麟太郎の注目を受ける。


1939年(昭和14年)3月に帰阪。

作之助は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)への勤務を経験していた。


一方で作家活動も続け、1939年9月には『海風』6号に「俗臭」を発表。この作品は、義兄竹中国治郎の長兄・吉川重太郎の生涯に題を得たものだが、これが翌年、室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となって注目を集める。更に7月に発表した「夫婦善哉」(小説)が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。


戦時中には長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受けたりしたが、当時の世俗を活写した短編「世相」を発表するなど、太宰治、坂口安吾らと共に新戯作派(無頼派)として活躍し、「オダサク」の愛称で親しまれた。


1946年(昭和21年)12月、結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。一進一退しつつも病状は徐々に悪化し、翌年の1月10日に死去。享年33。天徳寺で通夜が執り行われ、13日には桐ヶ谷斎場で荼毘に付される。


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詳しいことはこのウェブサイト、ウィキペディアで。(以下のURLからとべます。)

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